0002相死相愛
「へえ、面白い子だね、その新川陸っての」
俺の姉ちゃんは煙草を吹かしながら目を輝かせた。
俺は始業日から陸上部で汗を流し、疲労困憊だった。まだ夏はその鋭気を失わず、人間に恨みでも抱いているのか、灼熱の光で地上を照り焦がした。熱中症になる一歩手前で、俺はほうほうの体でクーラーの効いた我が家へ逃げ込んだのだ。
姉ちゃんの千砂は商社のOLを勤めていて、我が家の経済に潤いを与えてくれていた。俺は彼女が居間でくつろいでいるのを見るや、回復がてらに転校生のことをべらべら喋っていた。全く自制がきかないのは俺の欠点かもしれないが、さして改める気にはならなかった。
「いったいどんな過去があったんだろうね。ちょっとしたミステリーじゃないか」
「新川の奴、現在の正確な年齢もよく分かってないみたいだった。とりあえず現在17歳ってことになってるけど。あと、何か知らんけど喋り方が爺臭かった」
「ほう。どんな具合に?」
俺は新川の声真似をした。
「わしは新川陸じゃ。残念ながら記憶喪失じゃが、そこは皆の衆、よい塩梅に頼むぞよ」
姉ちゃんは噴き出した。
「なあに、それ」
「なっ、まるでおじいちゃんじゃん? 俺もびっくりしたね、奴の口調には。担任の小松に対して『はい』じゃなく『おう』とか答えてたな。かなりの大物じゃん」
「そこらへんの常識はお前が教えてやらないといけないよ、悠馬」
俺は紙パックからコップへ牛乳を注いだ。まだまだ身長を伸ばすつもりだった。
「まあ、小松直々に指名されたからね。俺が新川の教育係になって、あれこれ叩き込むつもりじゃん」
翌日、俺は朝練が終わると、強い眠気に襲われながら、友達の山崎と共に教室へ向かった。途中の廊下で親しい女子二人の姿を見つけ、声をかける。
「おはようじゃん、古山さん。それから由梨」
一人は古山宇美。もう一人は江崎由梨。クラスメイトで友達だ――由梨の方は。古山さんはあまり愛想がよくなく、彼女の話し相手といえば由梨一人に限る。
「おはよう、片平君」
古山さんが事務的に頭を下げた。黒いロングヘアが波を打つ。雪をまとったように白い肌だ。面を上げると冷徹な双眸と愛らしい唇が視界に刻まれた。
「おはようですの」
あくびをしながら由梨が挨拶した。茶色いツインテールがよく似合っている。背が小さく、制服はぶかぶかだ。黒目の大きい瞳、幼い鼻、丸い輪郭と、年齢よりずいぶん若く見える。
この二人がどうして気さくに話し合う仲となったのか、俺は寡聞にして知らない。まあ見た限り、俺の洞察力において、二人はそれほど親しくない、と思う。由梨の方はいいんだが、古山さんの方は誰彼区別なく一線を引き、決してそこからはみ出さないのだ。由梨もそれを感じ取り、承知していて、深入りを敢えて避けているように見える。そういえば俺は、古山さんが本気で――愛想笑いでなく、心の底から――笑った姿を目撃したことがない。この二人とは一年のときから同じクラスであるのに。
学校は朝の喧騒に包まれている。若い魂が陸揚げされた魚のように音立てて跳ね回っていた。この感覚は結構好きだ。俺は山崎、古山さん、由梨と世間話をしながら階段を上り、2年A組の教室を目指した。
そのときだ。
「喧嘩だ、喧嘩!」
他人の騒擾が好きでたまらぬ、といった様子の男子生徒が喚声を張り上げている。2年D組の前後の出入り口に人だかりが出来ていた。教室内で何やら揉め事が起こっているようだ。俺は嬉しくなって興奮し、殺到している野次馬たちに紛れ込もうとした。
「よしなさい」
古山さんが俺を制する一方、由梨が飛び跳ねながら「私も見たい!」とだだをこねる。山崎も爪先立ちで室内を覗こうと必死だ。
「誰か先生を呼んで来い!」
無粋な男の声が聞こえる。喧嘩騒ぎを楽しもうじゃないか、君。しかしそれを契機に職員室へだろう、数名が向かったため、ちょうど俺たちの入り込む隙間が出来た。ラッキー。
俺たちは室内を視界に捉えた。二人の男が中央で睨み合っている。一人は知ってるぞ、鮫島幸樹だ。茶色の軽く崩した髪に、奥まった目で日に焼けた小麦色の肌をしている。三白眼の瞳、切り立った崖のような鼻だ。遊び人で知られ、これまで泣かせた女は数え切れないという実に羨ましい奴だ。喧嘩に強いことでも有名だ。
そしてもう一人は……。あれ? こっちも見覚えがあるぞ。というより、知ったばかりじゃないか。
「新川じゃん!」
俺は思わず叫んでいた。そう、鮫島と対峙して一歩も引かないその男は、昨日A組に入ってきたばかりの転校生、新川陸だった。
彼は手に何か持っていた。大きさといい色といい、どうやら生徒手帳のようだ。そのどこかしらのページを開き、鮫島に突きつけている。何が書いてあるのだろう?
新川は怒気をはらんだ危険な声で鮫島を罵った。
「お主はこの娘に責任を取らぬというのか! 一年前、お主がこの娘と遊んで妊娠させたことを、この手帳が証明しておるのじゃぞ! 恥を知れ、恥を!」
鮫島も怒鳴る。
「俺が知るかっつーの! どうせその女は俺にふられた腹いせに、ありもしないことを書いて自己満足に浸ってたんだろ? とにかく俺は関係ねえな。そんな奴知るか、ボケが」
新川は一歩も引かない。
「言い訳するな! 潔く認めて謝罪すれば許してやる。謝れ! 娘に詫びろ!」
鮫島は顔面に朱を注いで歯茎を剥き出しにした。
「知らねえよ糞が! いい加減にしやがれ!」
鮫島の硬そうな拳が新川の頬桁をしたたかに殴りつけた。野次馬の男は嘆声を、女は悲鳴を上げる。新川は背後の机を巻き込みながらもろくも尻餅をついた。椅子が倒れて騒々しい音が鳴る。
「やりおったな!」
新川は血相を変えて立ち上がり、手帳をしまうと鮫島に飛び掛かった。鮫島は不意を突かれたうえ足を取られてバランスを崩し、後ろに倒れる。馬乗りになった新川は鮫島自慢の顔へ鉄拳を見舞った。鮫島が両腕を曲げて必死に顔面を守る。
ここでさすがにたまりかねた男子生徒たちが、一斉に教室へ雪崩れ込んだ。新川と鮫島を無理矢理引き剥がす。
「てめえ、ぶっ殺してやる!」
「お主には無理じゃ! この若造が!」
二人はまるで暴れ回る狂犬だった。何人もの手で押さえないと、すぐまた振りほどいて殴りかかっていきそうだ。俺も新川の腰に抱きつき、動きをおさえる。
そこへ落雷のような声が飛んできた。
「お前ら、何やってる!」
小松先生だった。A組からすっ飛んできたようだ。鬼のような形相をしている。
小松はいつも怠惰という仮面をまとって己の教職への熱い思いを封じ込めている。なぜかといえば、単純に照れるからだ。体育教師の原田のような直情径行型とは違い、小松は自分の本心を包み隠して生きることを癖としていて、それゆえ面倒くさがりという鎧をまとうことをいとわなかった。
しかし、今小松の外装は剥がれ、二人の生徒の喧嘩に心底腹を立てている様を露にしていた。
「馬鹿が。高校二年にもなって殴り合いか?」
さすがに年上の教師の大喝とあって、鮫島と新川はその興奮に冷水を浴びせかけられたようだ。先ほどまでの痴態が嘘のように冷静さが回復しつつある。
「何があった。原因は何だ」