いない夢
少年は夢を見ていた。夢であることがわかりながら、少年の意識はどこともいえぬ中空をふわふわと浮かんでいた。視点としてそうなのである。
まず、家が見えた。古い平屋で、曾祖父の代にはこうだったという家だ。父と母が、居間の備え付け窓から見えた。睦まじく、幸せそうに綻んでいる。極々小さな庭に面した縁側には三つ上の兄と二つ下の妹が足をぶらぶらさせていた。兄は面倒見のいい男だ。妹の言葉にいちいち頷きながら、至上とばかりに笑顔を見せた。妹もまた頭をこすりつけんばかりに兄に身を寄せている。少年は心が嬉しくなってその場を離れた。
三軒離れた老夫婦は善く少年達兄弟を可愛がってくれた。登下校で時間の合う時は、彼らは麦茶といくばくのお菓子を振る舞ってくれた。中でも手作りドーナツはまったく美味しく、10個作られたドーナツの残り1つを兄弟はいつも争った。その争いが兄の思いやりと妹の遠慮、そして少年の満腹という強がりに成り立っていたから老夫婦はいつも彼らをニコニコと見守っていた。その老夫婦が今、兄と妹の登校を見ながら平穏と安寧を一気に享受したような溶けた笑みを浮かべていた。少年は心が嬉しくなってその場を離れた。
学校の正門は片側を全開にし、もう片側を半分ほど開けて当番の先生と生徒が声掛けを行っていた。照れ臭さからか男子は男子に、女子は女子にと朝の挨拶を交わすことが多いが、その日は性の隔てもなく、屈託もなく、爽やかさだけを言葉に乗せて声をあげることに皆が成功していた。少年は心が嬉しくなってその場を離れた。
夕暮れの中を帰宅した兄妹は、質素でもなく奢でもない夕食を幸せそうに頬張り、父母と今日という一日がどれほど幸福に満ちた日であるかを語り合い、己たちが既にいかに満ちたり得た存在であるかを再確認していた。そこに邪はなく、ただ理想の家庭があった。一片の欠けもない充実が、面々の表情をふっくらと見せた。少年は心が嬉しくなってその場を離れた。
家族は眠りへ就いた。少年もまた、眠りへ落ちた。これは夢であった。そして、少年の望みが全て叶った、夢であった。