7.僕は精液にすぎないか(15)
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ちょっと話がある、とミロクさんが言うので、僕は部屋に残った。
村上刑事は、車で待ってる、と言って、玄関を出て行った。
喉が渇いた、と言うと、ミロクさんは、冷蔵庫に麦茶がある、と言った。
窓辺に立つ彼の顔は逆光でよく見えなかった。
僕は冷蔵庫から麦茶を出し、食器カゴからコップを取って、麦茶を飲んだ。
本当は喉など渇いていなかった。
ただ、ミロクさんと二人きりで向き合うのがつらかった。
しかし、麦茶を飲んでしまえば彼の前に戻らなければならなかった。
「僕と弟のことはだれに話してもいいからね」
とミロクさんは言った。
「だれにだって秘密はあるよ」
と僕は答えた。
「秘密なんかじゃ、ないんだよ」
ミロクさんは、逆光の中で、微笑んだようだった。
「そう。じゃあ、だれかが聞きたがったら、そのときに話すことにする」
ミロクさんはうなずいた。
そのうなずきの意味はわからなかった。
それでいいということなのか、そういうことも覚悟しようということなのか。
わからないうなずきはわからないままですまそう。
白砂咲子という女性から手紙が初めて届いたのは三年前だった、と彼は言った。
僕は聞こえていないようなふりをした。
彼はかまわず続けた。
それはたしかに恐喝の手紙だった。
しかし、白砂咲子が恐喝のネタとしたのは、ミロクさんの弟が連続殺人犯であることでも、彼が弟を罠にかけて警察に引き渡したことでもなかった。
「あの事件で最後の被害者が殺されずに逃げられたのは聞いたか。
事件の解決後、警察はその子のプライヴァシーを保護した。
マスコミだって中学三年のA子さん以上の報道はしなかった。
もちろん、僕だってそういう子がいたということしか知らない。
でも、手紙にはその子がその後、高校に進んでどんな生活を送っているか、事細かに書いてあった。
名前とか、高校名とか、具体的なことは隠してあったけどね」
村上刑事が言っていた四人目の被害者。
生き延びた少女には、事件とまったく関係のない生活があり、それは事件のあとも変化なく続かなくてはならないし、続けなくてはならない。
僕は、自分と同じ世界のどこかに、彼女もまた存在していることを、そのとき初めて気がついた。
「事件のことは、家族以外だれも知らない、と書いてあった。
僕が、毎月一万円を白砂咲子の口座に振り込み続ける限り、彼女の秘密は守られるだろうってね、文面はそう終わってたよ。
そのあと、馬鹿にしたように『p.s.』とあって、振込人名には『カイン』を使うよう書かれていた」
「疑わなかった?」
「疑ったさ。手紙に書いてあることは全部、嘘っぱちだろうってね。
今だって、十三貝が四人目の被害者を知っていたとは信じられない。
……でも、僕は、僕を信じたんだよ、トモ」
これは永遠に続く負債なんだ、とミロクさんは言った。
返済し続ける自分を信じることしか、できることはなかったのだと。
「そんな被害者のことなんて、自分には関係がないとは、考えなかったの?」
「関係あるだろう。その子のことが関係ないなら、弟のことだって関係ないということになる。
ちがうか」
「ちがうよ」
僕ははっきりうなずいた。
「そんなの窮屈な生き方じゃない?」
「好きでやってんだからね、窮屈だなんて言えないだろう」
僕にはやりきれない話だった。
話題を変えた。
いつから十三貝さんを疑っていたのか訊いた。
逆光のミロクさんは、顔をしかめたようだった。
「こんな脅し方をするのは僕という人間を知っている証拠だ。
だから、白砂咲子が身近にいるのはわかっていた。
十三貝を疑い始めたのは、今年に入ってからだね。
直接的な理由があったわけじゃないんだ。
なんとなくそんな気がしたっていうだけなんだが」
「で、ピッキングの道具を買って、彼女の部屋へ忍び込もうと考えたわけ?」
「まあ、そうだね。その機会をうかがっているうちにこんなことになってしまった」
「どうして本人に直接訊いてみなかったの?」
「なんて訊くんだい、トモ?
僕を強請っているのは君かって訊けばいいのか。
どう訊いたって同じことだよ。
彼女は否定するに決まってるじゃないか。
白砂咲子なんて知らないって言うだけだよ」
「いや。知らないとは言わないんじゃないかな。
白砂咲子は十三貝さんの母親の名前なんだ。
本人は明日こっちへ来るらしいよ」
「そうか」
ミロクさんはしゃがみ込んだ。
「もう行けよ。刑事が待ってるんだろう?」
僕はうなずいて、彼に背を向けた。
部屋を出ようとする僕に、当分〈パブロフ〉には顔を出さない、と彼は言った。
わかった、とだけ僕は答えた。




