7.僕は精液にすぎないか(9)
「あれは最初の殺人事件だったからよく覚えてる。
でも、考えてみりゃつまらない事件だよ。
犯人の寺島哲雄ってのは、中小企業の中間管理職でねえ、どこにでもいるような、妻子持ちの中年男だったよ。
被害者の山木良枝は寺島の部下で、生前の写真を見たけど、結構かわいい子だった。
どうしてこんな子が、あんなつまらない中年男とつきあうんだ、と不思議だったね。
事件が起きるまで、職場の同僚たちも二人の関係には気づいてなかった。
知ったときには、なんで寺島課長なんかと、って驚いてたぐらいでねえ。
寺島ってのは、女遊びをするようなタイプじゃなかったんだね。
本人の証言によれば、結婚してから浮気なんて一度もしたことがなかったんだってさ。
免疫がないから、よけいにのめり込んでしまったんだろうねえ。
被害者の方は割り切っていたのに、彼がひとりで本気になって、やれ離婚だ同棲だって、騒いでいたらしい。
そんな男が、被害者には煩わしくなっていたんだろう。
事件の日、木曜日だよ、寺島は毎週火曜日と木曜日の夜は必ず、被害者の部屋を訪ねていたんだけど、この日もいつものように、山木良枝の部屋にやってきた。
そこを十三貝美奈子に見られたんだな。
彼女は買い物に出かけようと、玄関のドアを開けたところだったそうだ。
寺島の方は反対に、ちょうど部屋に入るところだった。
本人は見られたことなんて、全然気づいてなくて、それを教えられたときはひどく驚いたって話だ。
僕はその場にはいなかったから、どれくらい驚いたのか、本当のところはわからないんだけどね。
もっとも、その時点ではまだ、被害者を殺すつもりなんて毛頭なかったようだから、周囲のことなんて、そんなに気にしていなかったのかもしれない。
被害者は突然、別れ話を切り出したんだそうだ。
寺島にとっちゃ、晴天の霹靂ってやつだった。
なにしろ本人は妻とひとり娘を捨てて、被害者と結婚するつもりでいたぐらいだから。
別れる別れないの言い争いが、やがて揉み合いになり、気がついたら、そこにあったペーパーナイフを刺していた、と寺島は言ってる。
そのへんのことは、逮捕されるとあっさり自供したんだ。
凶器のペーパーナイフも、寺島の家から発見されたよ。
まったくねえ、馬鹿な男だよ。結局、なにもかも失くしちまったんだ。
裁判の前には妻から離婚届を突きつけられて、まあ、妻子と別れるという点では、望みがかなったとも言えるのかなあ。
……こんな事件なんだよ。
いったい、だれが美奈子に復讐するんだ?
だいたい、十三貝美奈子なんて名前を、犯人の関係者は知らないはずなんだ。
それに、なにも彼女の証言がなくたって、いずれ寺島哲雄に警察は辿り着いたろうね。
だから、美奈子の耳を切ったり、乳首を切ったりなんて、逆恨みとしても、少々ピントがはずれてるんじゃないかあ?」
「じゃあ、七月二日というのも偶然だと言うんですか」
「ほら、縹さんも言ってただろ。偶然に見えない偶然なんて、世の中には、いくらでも転がっているんだよ。
それに考えてみなよ。
三年前のOL殺しに、君自身は、どうかかわってくるんだい?
今回の事件が復讐なのだとしたら、君なんか関係がないはずだろう?」
それは彼の言うとおりだった。
僕なんて、たかが二週間だけ、十三貝さんと関係のあった男にすぎない。
僕に乳首を送りつけるなら、イタリアでピザ職人の修行をしている男に送ったっていいはずだ。
あるいは、僕の前につきあっていたという男にだって。
――どうして僕が選ばれたのか。
自分自身気づいていないところで、僕がOL殺しにかかわっていたということなのだろうか。
当時、僕はまだ高校三年生だった。
七月二日。
まだ梅雨は開けていなかった。
父から進学をあきらめてくれと言われたのは、その数日後だったはずだ。
僕もカツもまだ、未来の不確実性なんてものは、シュレディンガーの箱の中の猫にしか関係がないんだ、と思っていた。
まさか自分たちがその猫だったなんて、気づいていなかった。




