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6.TATOO――契約の印(13)

「――僕?」


「彼女の部屋で関係を持ったことは?

 そのときコンドームは?

 終わったあとでどこに捨てました?

 ――わかりましたか。おそらく、そういうことなんですよ」


 このとき、僕が感じていたのは、怒りでも悲しみでもなかった。

 自分が無生物に変えられてしまったような、ガスのような存在の希薄さだった。

 追い討ちをかけるように、縹刑事のことばは続いた。


「たぶん、無言電話や嫌がらせの手紙だけでは警察が本気にならないと考えたのではないでしょうか。

 隣の女子大生を使ったのは、山口さんと直接の関係がない人間を被害者とすることで、大学内のこんぐらがった単なる恋愛問題と見られることを避けたかったのか、警察沙汰に自分を巻き込みたくなかったのか、そんなところです。

 いずれにしろ、彼女には警察が乗り出して来ざるをえないような、異常な事態が必要だったんです。

 山口さんがそこまでエスカレートするのを、待つつもりはなかった。

 先手を打たなければ、彼に対する警告にならないですからね。

 そして、彼女はドアノブに精液を塗りつけることにした。

 でも、当時はつきあっている男性がいなかったので、精液を手に入れるのが困難だったんでしょう。

 彼女は、身の回りの男たちを候補にして、妥当な人物を選考したわけです。

 容易に関係を持つことができ、後腐れなく容易に別れられ、そして必要な量の精液を供給してくれる人間――それがあなただった。

 彼女は計画を実行に移し、警察は彼女の計画どおりに山口さんを捕まえて厳重注意を与えた。

 山口さんも強硬に否定はできなかった。

 手紙はあるし、自分がストーカーしているのは、隣の部屋の方だと言ったところで、ストーカー行為をしているという状況は何も変わらないですからね」


 あの二週間の意味はこれだったのか。

 十三貝さんにとって、僕という存在は単なる精液だったのか。

 身体中から栗の花の生臭い匂いが立ち上っている気がした。


「そんなに落ち込まなくてもいいんじゃないですか。

 いくら理由がほかにあったからといって、嫌いな男と関係を持つ女はいませんからね」


 好きな男と理由もなく別れる女だっていないだろう。


 縹刑事は隣に住んでいた女子大生が、そのあとすぐに引っ越したことまで喋った。

 彼女は精神的にひどくまいってしまい、転居後も医者に通っていたということだった。

 十三貝さんの今回の件は自業自得だという含みがあるように聞こえた。


 意外に毛深い手が伸びて僕の前から空き缶を取り上げた。

 もう一方の手が朝美ちゃんの飲んだ缶を掴んだ。

 縹刑事は立ち上がり、テーブルの横にあったゴミ箱の中に両方の缶をそっと置いた。

 これは「もう帰れ」という合図だろう。

 しかし、僕は席を立たなかった。

 じっと彼のすることを見つめていた。


 彼は、僕の視線に困ったように微笑うと、背筋を伸ばし、両手を腿の上に置いて、微笑ったまま僕を見つめ返した。

 僕が見ている限りそうしているつもりかもしれなかった。


 襟首が擦り切れた皺だらけのワイシャツ。

 胸に小さなシミがついていた。醤油か蕎麦つゆだろう。涙の形をしていた。

 手垢じみ、よじれたネクタイも、初めはもっと明るい紺だったはずだ。今は紺というより黒に近い。


 僕は縹刑事から眼をそらさなかった。

 絶対僕から先にはそらさないと決めた。

 先に視線をはずした方の負けだ。


 彼は微笑っていた。帰れともなにも言わない。

 出来の悪い生徒が答案用紙を提出するのを辛抱強く待つ教師のように、僕がなにかに気づくのを待っているようだった。


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