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1.袋の中の耳(8)

「学生ホールに寄ってもいいですか」


 縹刑事は、露骨に嫌な顔をした。

 身体中の水を一滴残らず絞り出す暑さが、抑制を忘れさせていたのだろう。


「ノートを返さなくちゃいけないんです。そういう約束で借りたんですから」


「耳が乗っていたノートですか」

「ええ。まずいですか」


 縹刑事が足を止めた。

 彼は、農耕馬のように鼻で荒く息を吐きながら、顔と首の汗を拭った。

 ハンカチはもう、傍目にもぐしゃぐしゃに湿っていた。

 僕のあごからも汗が垂れた。

 アスファルトの地面に落ちて、小さな黒いしみを作った。


「まずいと言うほどのことでもないんですがね……」

「いいんじゃないですか、ノートくらい。それより、そのノートを貸してくれた女の子の方が気になりません?」


 村上刑事が妙に明るい声で、僕の不安を呼び起こした。

 針で突いた指先に一点血が滲み、

 やがて盛り上がってルビーのようなドームを形成し、

 しまいには危うい均衡が崩れて一筋流れ、

 爪の先から滴り落ちるように、

 不安は不安そのものを増幅させた。


 切断された耳。

 それは若菜の右耳かもしれなかった。


 僕は縹刑事の返事を待たずに方向転換し、学生ホールに向かって歩き出した。


 学生ホールまでの二十メートルにも満たない距離がひどく長い。

 早足にもかかわらず、どの一歩もいっこうに僕を学生ホールのガラスのドアへ近づけない。

 ようやくドアに辿り着いても、開けることは一瞬ためらわれた。

 ドアの向こうには恐ろしい結末が待っているような気がした。


 しかし、僕は、自分の妄想と、ときとして妄想じみた様相を見せる現実に抗うために、勢いよくドアを引き開けた。


 学生ホールは冷房が効いていたが、背骨の窪みを伝う、嫌な汗は止まらなかった。


 つまらない講義から解放された学生たちが集まってくる。

 僕は入り口に立って、ホールと呼ばれるわりには広くなく、天井も高くないその空間を見回した。

 ジュースの自販機の前、

 サンドイッチや軽食を売っているカウンター、

 ずらっと並べられたベンチ。

 そのどこにも若菜の姿はなかった。


「まだ授業は終わったばかりだし」

 村上刑事が僕の焦躁をなだめるように言った。


 僕ら三人は、休み時間の最初の五分、そこに突っ立ったままだった。


 冷たい汗が腋下を流れ続け、若菜は現れなかった。


「座って待ちましょう」


 縹刑事の促すままに、僕はいちばん近かったベンチに行き、よろけたように座った。

 僕が逃げ出すことを心配したのか、二人の刑事は僕を挟んで腰を下ろした。


「授業が延びているんでしょう」


 僕は答えなかった。

 気の小さい、神経質な若造だと思われたろう。

 胃は絞られた雑巾のように縮み上がり、溢れた胃酸にしくしく痛んだ。

 ホールの隅から隅まで、眼を皿のようにして、若菜の小柄で華奢な身体を探した。

 彼女は影さえ存在しなかった。


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