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5.だれのものでもない乳首(10)

 僕は若菜が追加注文してくれたミックスピザを喉に詰まらせそうになった。

 喉チンコに絡みつく溶けたチーズを冷めたコーヒーで流し込んだ。

 カツがいなくて本当によかった。


「どうやらあの人は、あたしたちがつきあってるって勘ちがいしてたみたいなのね」

「で、おまえはどうしたんだ?」

「もう、困っちゃった。しかたないからお礼を言っといたんだけど」

「お礼って、若菜――」

「だからさ、トモをオトコにしてくれてありがとうございますって」


 僕は赤面してしまった。

 全身から汗が吹き出した。

 自分の知らないところでこんな無茶苦茶で恥ずかしすぎる会話がなされていたとは。


「なんなんだよ、オトコにしてくれてってのは」

「だって、なにを言えばいいのかわかんなかったんだもん。

 しょうがないじゃん。

 ……うん、まあ、向こうも変な顔してたけどさ」


 そりゃ変な顔もするだろう。

 僕との関係を若菜に告げた十三貝さんの真意はわからない。

 少なくとも礼を言われるとは予想していなかったはずだ。


「カツには言ってないだろうな?」


 若菜は急に真顔になった。


「言うと思う?」


 僕は、思わないよ、と答えて、彼女から視線をはずした。

 窓の外、若菜のスクーターがすでに強すぎる陽射しにさらされていた。

 シートは溶けたように柔らかそうで、火傷しそうに熱そうだった。

 スクーターの影がアスファルトに焼きつけられていた。

 だれもがこんな夏の日を忘れてしまっても、影はそこに残っていそうだった。


 十三貝さん自身が若菜に伝えていたのだ。

 彼女が話した相手は若菜ひとりだけとは限らない。

 たとえばいちばん仲の良い洋子さんは聞いていたかもしれない。

 洋子さんが知ったとすれば、かつてつきあっていたウマノスケや、今の恋人である古屋さんに耳に入っている可能性は高い。

 そこまで伝わったら〈パブロフ〉のメンバーにはすぐに知れ渡る。


 しかし、知れ渡っているなら、そのことでからかわれたりしてもいいはずだ。

 それらしいことはなにもない。

 やはり〈パブロフ〉の連中は知らないのだ。


 山口はしつこいから、まだ十三貝さんにつきまとっているんじゃないか。

 そうだとすれば、あいつは最近の十三貝さんについて詳細に知っているはず。

 彼女を探すと決めたものの、僕にはまだ具体的な指針が立っていなかった。

 だが、山口が彼女について僕の知らないことを知っているなら、それを取っ掛かりに、どうすればいいか見えてくるだろう。


 二時間目が始まっていた。

 僕はもう講義に出る気をなくしていた。

 すっかりサボリ癖がついてしまった。

 校門から木陰を縫うように歩いて学生ホールへ向かう。

 キャンパスに人は少なくなかったが、あまりの暑さにみんな口を開くのも億劫なのか、人間がいる騒々しさはなかった。

 みんなそこに存在していることも自覚できていない幽霊だった。

 キャンパスという場所の記憶が、太陽に炙られて、陽炎のように立ち上っているのかもしれなかった。


 蝉の声があらゆる方向から聞こえてくる。

 構内のいたるところに植えられた木のすべての枝に蝉がとまっているようだった。


 大学の長い歴史の中で無計画に建てられてきた校舎は、その建築時期によって大きさもデザインもまちまちだったが、蝉の声はそれらの壁に反響し、歪み、重なる。


 僕はこれまで読んだ推理小説の探偵たちがいったいどんな手順で謎を解いたか記憶の箱をひっくり返していた。

 しかし、気がつくとポワロもマーロウもどこかに消えてしまって、ただ蝉の声だけが圧倒的な量感で頭蓋を満たしていた。


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