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5.だれのものでもない乳首(4)

     ◆


 とんでもない朝だった。


 僕がトイレでもどしている気配に母は眼を覚ました。

 カツが隠す間もなく、彼女は食卓に萎びた乳首を見つけた。

 半狂乱の彼女はどんな説明も言い訳も聞く耳を持たなかった。

 もっとも、僕にも母を納得させられるだけの説明はなかった。


 いったいどんな理由からなのか、僕は三発ひっぱたかれた。

 カツも二発くらっていた。


 意味不明な音声を怒鳴りつつ迫ってくる母から逃げる。

 僕はテーブルの周囲をぐるぐる回った。


 カツは部屋の隅にしゃがみ込んで叩かれた頬を撫でていた。

 薄ら笑いを浮かべて僕と母の円運動を眺めていた。


 なんで笑っていたんだ、とあとで訊いたら、前はよくこんなことがあったなあと思ってさ、とカツは答えた。


 たしかにかつてはこんなのが日常だった。

 高校二年、部室で煙草を吸っているところを見つかって兄弟揃って停学をくらったときも、母の制御弁は弾け飛んだ。

「育て方をまちがった」とか「馬鹿が二倍になるってわかっていたら双子なんか産むんじゃなかった」と泣き喚いた。

 布団叩きを振り上げ、僕らを家中追いかけ回したっけ。


 そんなときこそ父の出番。

 一家の裁定者たるべく僕らの間に割って入り、だれの役にも立たないような正論を吐く。

 かえって母の怒りに油を注いだものだった。

 しかし、今の父にその覇気はない。

 ただ背中を丸めて狸寝入りを決め込んでいるだけ。


 僕はトイレの前に追い詰められた。

 母が本気で怒った顔を見るのは久しぶりだ。

 眼に涙を溜めていた。

 母にすまないような気がした。


 母の肩ごしに見えるカツは前日脱ぎ捨てたままだったアロハをはおり、ジーンズに足を突っ込んで逃げ出す態勢を整えているところだった。

 身支度がすむと、乳首入りパケの端を摘まみ上げ、元の封筒へ落とし込んだ。

 僕に向かい、ぷ・ら・と・お、と近所のファミレスの名を、声は出さず、口唇だけ動かして告げた。

 そして、忍び足で玄関を出て行った。


「母さん、母さん」と僕は言った。


「隠そうなんて魂胆が情けないッ!」


 小さな拳が胸を打った。

 痛みなどない。

 母はなぜ叩くのだろう。

 息子たちが幼かった頃と同じにその拳を恐れているとは、さすがに信じていないだろう。


「なんにも隠してなんかないってば」


 僕は普段の声で答えた。

 母の怒りを煽ることになるのはわかっていた。

 が、こっちまで声を荒げたらどうにも治まりがつかなくなる。


「じゃあ、あれはなに?! どう説明するの?!」


 説明できるものならしてる。

 苦し紛れに僕はある人の名前を出すことにした。


「ううう、詳しいことは吉田のおじさんに聞いて」

「え、吉田クン?」


 予想もしてなかった人間の名前が出て、母は思考停止した。

 僕はその隙をついて母の脇をすり抜けた。

 スニーカーを両手に持ち、裸足で玄関を飛び出した。


 最初の角を曲がるまで裸足だった。

 足裏の砂利を払いスニーカーを履きながら、吉田のおじさん、すなわちカレー専門店ゴアのマスターには悪いことをしたと思った。

 が、すぐに、マスターにもこれくらいは役に立ってもらわなくちゃな、と思い直した。


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