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5.だれのものでもない乳首(3)

「リアルってこと?」

「安いことばでわたしを解釈しないで」


 僕は手を突いて身体を持ち上げた。

 枕に十三貝さんの髪が広がっていた。

 彼女は僕を見上げていた。

 その眼の中で小さな僕が僕を見つめ返していた。


「寒いわ。くっついていて」

「君が欲しいのは安心よりも暖房みたいだな」


 彼女は僕の胸を平手でぴしゃりと叩くと、身体を半転させてベッドを降りた。

 電気ストーブを中から強に変えて、ベッドへ向けた。

 床からTシャツを拾い上げると歩きながらかぶって、キッチンへ行った。


「埴谷の『死霊』にね、首猛夫がひどく寒い牢獄の中で綿屑を耳に乗せてその一点に自分自身を収縮させる幻想を抱いたって告白する場面があるでしょう?

 あなた、あれは読んでるの?」


 十三貝さんは振り返りもせずに言った。

 白いポットに紅茶の葉をティースプーンでフォションの金色の缶から運んでいた。

 この前来たときも飲んだ。ココナツ・フレーバーティーだ。

 めったに売ってないの、と彼女は言っていた。


 僕はベッドに寝そべったまま、読んでない、と答えた。

 実際は一章だけ読んで挫折してしまったのだった。


「ミャンマーのお坊さんの話を聞きに行ったことがあるの。

 南方上座部の老僧なんだけど、真面目に『長老』って呼ばれてる人なんて初めて見たわ。

 そのとき彼は座禅の話をしたの。

 小乗仏教の座禅て禅宗の座禅とはちがって、どちらかと言えば瞑想に近い気がしたんだけど……」


 彼女はポットのお湯を赤いケトルで沸かし直した。


「彼が言うには、雑念を払おうと外部への意識を断ち切るのは正しくないんだって。

 たとえば座禅中に窓の外をバイクが通ったら、そのバイクの音へ意識を集中する。

 蚊に刺されたらその痒みへ意識を集中する。

 そうすると対象と自分が完全に重なったとき、バイクの音や痒みはもはやバイクの音や痒みではなくなる――

 そういう話よ」


「痒みが自分自身になるってこと?」


「まあ、そういうことなんでしょうね。

 あるいは、自分なんていいかげんなものって教えなのかもしれない。

 わたしたちは普通、皮膚を境にその内と外で自分とそうでないものを分けるじゃない。

 でも、それって単なる習慣にすぎないんだから。

 自分の大きさがどれくらいかなんて、眼をつぶればすぐに曖昧になってしまうんだし。

 蚊の刺した一点や、窓の外のオートバイの音だけに世界を限定してしまえばどう?

 痒くない皮膚が存在しなければ痒いということ自体の意味が消えてしまうでしょう?

 バイクの騒音だって同じ。

 ノイズしかない世界ではノイズは存在しない」


「なんの話をしてるのさ?」


 僕は十三貝さんの手から黄色いカップを受け取って訊いた。


「やだ。不安の話をしてるんでしょ」

「どこが不安の話なんだよ?」

「だから、不安も、その元になっているある一点に意識を集中すれば消えてしまうってことよ。

 自分が不安そのものになってしまえばいいってこと」


 紅茶はワインのように赤く、ココナツの甘ったるい香りを湯気に乗せていた。

 しかし、口をつけると甘さなど微塵もなく、くっきりと明瞭な紅茶の味だった。

 熱さは舌に「硬い」とさえ感じられた。


 一方、十三貝さんの話は紅茶のようにはクリアでなかった。

 彼女らしくもない不明瞭で非論理的なひとりよがりに聞こえた。


「無理がある話だね」

 僕は紅茶を吹くついでにそれだけ言った。


「……わたしの不安はね、ある一瞬なの。

 いつでも、どこにいても、わたしはその一瞬から逃れられない。

 いつかその一瞬がわたしの世界を打ち砕いてしまうだろうという不安なのよ」


「どの一瞬?」


 彼女は答えなかった。

 カップを手になにかを探し始めた。

 煙草とライターを机の下から拾い上げた。

 どうしてこんなところにあるんだろう、と呟いて一本くわえた。


 僕はそんな十三貝さんを見ながら、しばらく前に読んだ詩の一節を反芻していた。


〈ぼくが真実を口にすると……〉


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