4.眼から隠すという露出(6)
否定はしたものの、後ろめたくもあった。
十三貝さんとの間になにかを期待するような……。
しかしそれも彼女が無事でいる前提の話だ。
一刹那制御をはずれた欲望が生み出した妄想でしかなかった。
「あの人、手首に傷があるんですよ」
「十三貝さん? そうだっけ?」
「ちがいます。母です」
「ちさとのお母さんの手首?」
僕は驚いた。
ちさとが母親を「あの人」と呼んだことにも、その人の手首に傷があることにも、そしてそんなことを僕に打ち明けることにも。
三つまとめてびっくりしたのだ。
しかし、そんな驚倒はおくびにも出さず、僕は窓の外の夜を見ていた。
「リストカットした母親なんて扱いに困ります。
不発弾と暮らしてるみたいな気がするときがあるんです。
わたしがするちょっとしたことに過敏に反応してまた切ったらどうしようなんて不安になる。
もっとも、それはお互い様かもしれないけど」
「それって……ちさとが原因だったってことか」
「ううん、ちがう。父のせい。
テレビでよく見かけるパターンですよ。
夫が外に女をつくって狂乱する妻の図ってとこかな。
朝起きてきたらあの人は台所のテーブルにぐったりうつぶせていたんです。
父が真っ青になって近所のお医者さんに運んだんですよ。
お医者さんはなにも言わずに治療してくれて、そんなに傷は深くなかったらしくて、すぐ家に戻ってきたんだけど、父はその日、会社を休んでずっと母のそばにいました。
包帯した手を握って、ごめんごめんて。
母は父から顔を背けて黙ってました。
あの人の狂言だったのかもしれないけど。
あのときは、わたし、身体が粉みじんになったみたいな感じで……」
「わかる……とは言えないな。僕にはピンとこない。ごめんな」
僕らは正面の窓に映るお互いの姿に向かって話していた。
幽霊のように色の薄い写像のちさとは笑っているように見えた。
「いいんです。わかってもらいたいとか、そういうことで話してるんじゃないですから。
――バラバラにちぎれた家族の絆を修復できるのは、子どものわたしだけだって思ったんです。
で、わたし、父がつきあってた女性に会いにいったんですよ。
すごくないですか」
「ひとりで? 実際に会ったの?」
「会いましたよ、もちろん。父と別れるよう迫ったんです」
「恐い娘だな。それで別れさせたんだ?」
「ううん。肩すかしでした。これは遊びだから心配しなくても平気よって。その女の人は笑いながらそう言ったんですよ」
ちさとの打ち明け話はそこで終わりだった。
「ちさと、今日は帰んなよ」と僕は言った。
「母がまた切るかもしれないですもんね」
「馬鹿なこと言わない方がいい」
目的の駅に着くと、ちさとも降りてきた。
睨むと悲しそうな顔をした。
僕は彼女に背を向けて歩き出した。
カツカツとミュールの音が追ってくる。
駅から十三貝さんのマンションまで十分もかからなかった。
あの冬に何度も来た場所だから足は道順を覚えていた。
途中、ちさとの足音がカッカッと速まって、荒れた息遣いが僕の肩先で聞こえた。
僕はちさとの手を握った。
彼女の指は冷たかった。
熱帯夜に、それだけが冷たかった。
マンションの前で、十三貝さんの部屋を見上げたのは、無意識の行動だった。
あっ、とちさとが小さく声をあげた。
十三貝さんの部屋には明かりがついていた。




