1.袋の中の耳(4)
「トモ、今日は何時間目までいるの?」
若菜が訊いてきたのは昨日の昼休みだった。
彼女は両手に持っていたソフトクリームの片方を僕に突き出した。
僕は「ありがと」と受け取って、すでに溶けかけている頭の部分を頬張った。
「四時間目までで帰る。バイトが入ってるから」
「そう、じゃあ、ノートは渡せないわね。どうしようかな。明日の昼には別の子に貸す約束してるのよ」
本来ならソフトクリームではなくノートを受け取るはずだった。
ところが、前に貸した相手がまだコピーを終えてないのだと言う。
ソフトクリームは違約金代わりといったところだ。
試験が近づくと若菜のノートは日本文学科の学生たちの間でひっぱりだこになる。
「試験のため」という正当な理由(?)を持った学生の行列のせいで、趣味で借りているにすぎない僕の順番はあと回しにされる。
しかも、僕の後ろにもまだ行列は続く。
「僕のラック、わかる?」
「〈パブロフ〉の?」
「そう、サークル室の。今日の帰りにあそこに入れといてよ。明日朝イチに来て写しちゃうから。で、二時間目の前に若菜に返せばいいだろ?」
「それでいい?」
若菜は舌先でコーンの縁に垂れかかったクリームをなめた。
「問題なし、だよ」と僕は答えた。
そんなわけだから、ノートの上にマクドナルドの紙袋が乗っているのを見たとき、僕はてっきり若菜がオマケをつけてくれたのだと思った。
〈パブロフ〉のラックは部屋の外に置いてある。
七〇年代初めに建てられた旧サークル棟の部屋はどれも異様に狭い。
長机と三人掛けのベンチを二脚入れるとほかにはもうなにも入らない。
ラックやロッカーはどのサークルも通路に出していた。
狭い通路がさらに狭くなるが、だれも文句を言わない。
そんなもんだとあきらめている。
僕の棚は上から二段目。
入会時からずっと同じだ。
持って行かれてもいいような本が突っ込んであるだけだが、不思議とこれがなくならない。
自分がいらない本は他人もいらないのか。
それとも僕の趣味は偏っていて普通の人は食指が動かないのか。
若菜のノートは棚の真ん中に置いてあった。
紙袋はその上に、ちょこん、と乗っていた。僕は紙袋を持ち上げて、その軽さを訝った。
マクドナルドの商品にこんな軽いものはない。
僕は「文芸サークル〈パブロフの猿〉」というプレートを張り付けてある薄いドアを開けた。
中へ入ると、カバンをベンチに放り出して、紙袋を逆さに振ってみた。
若菜のノートの上に変色した耳が転がり出た。
ああ、耳かな、と思って、よく見るとやはり耳だった。
色は変わっていたが、形は珍しくもない人間の右耳にまちがいなかった。
作り物かと上の方を摘んでみた。
冷たさは別にして、グニグニコリコリとした感触は本物だった。
小さな耳だった。
自分のを触って確かめてみた。
僕のよりひとまわり小さかった。
耳たぶはほとんどないくらいに小さく、ピアスの穴が、ぷつり、と開いていた。
切断部分は定規を当てて作業したみたいに真直ぐで、断面にわずかに乾いた血がこびりついていた。
もっとも、血が残っていたのはそこだけで、ほかは洗われたらしくきれいだった。