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3.世界を分節する舌(10)

 僕は十三貝さんのバッグを持って螺旋階段を昇り、二階の窓際に二人がけのテーブルを見つけた。

 彼女はすぐにコーヒーを乗せた盆を持って上がってきた。


 席につくなり、彼女は煙草をくわえた。

 いつもの細い煙草だった。


「今はまだわたしの前に姿を現す勇気がないわけ。いずれもっと露骨に接近してくるでしょうけど」

「それってストーカーですか」

「馬鹿。なんの話をしてると思うの」


 十三貝さんはカフェラテをひとくちすすると、熱そうに眉をしかめた。


「引っ越してもね、いずれ相手は新しい部屋を見つける。

 携帯電話の番号だってそう。

 でも、いつわかるかでとりあえず大学の人間かどうかは見当がつく。

 できれば〈パブロフ〉のだれかであってほしいわね」


「なんでですか。気持ち悪いじゃん」

「気持ち悪いのはだれだったとしても同じ。

 なるべくこっちもよく知っている人間であってほしい。

 その方が対処のしようもあるし、全然見ず知らずの人間だったら、そんなの、のっぺらぼうには目鼻がないってわかったにすぎないじゃない。

 相手のことがわからないっていうのは恐いでしょ」


「そんなもんでしょうか」

 僕は奢りのコーヒーに口をつけた。こころなし苦味を強く感じた。


「正体のわからないものに対する恐怖――

 わかる? 今のあいつはわたしが怯えるのを見て楽しんでいるのよ。

 ちょっとしたことに過剰に反応するわたしを見て、自分に特別な力が備わったような、そんな気になってるの。

 他人を脅かすパワーを手に入れることは快感だから」


「そんなこと断言できます?」

「断言するわよ。わたしにはわかるの」


「わかるような気もするけど……どうかなあ。それって恐いような気もする」

「力を手に入れることが?」

「うん。そんなふうにっていうか、どんなふうでもいいんだけど、とにかく他人とその人を支配するようなかたちでかかわるのは嫌ですね」


 十三貝さんは苦笑しながらため息をついた。あなたは出世しないタイプね、と言った。

 僕は肩をすくめてみせた。


「ねえ、先輩は僕が守ります、ぐらいのことは言ってみせたらどう?」

「ごめん。その手のはったりはかませないもんで」

「つくづく出世しないタイプ、あなた」


     ◆


 ゴアのカウンターの端では小さな髑髏が、招き猫を乗せるような小さな座布団の上から店内を眺めている。

 マスターによれば、それは彼がインドから内緒で持ち帰った子どもの頭蓋骨だということだ。


 真偽のほどはわからない。

 カツは猿だろうと言っている。

 人だろうと猿だろうとそんな物を店に置いておくのは悪趣味でしかない。


 実際、気味悪がる客もいるしカレー専門店の営業にプラスになっている様子はない。

 客の中には、カワイイ! と言ってリボンをかけたがる若菜のようなのもいるから、一概にマイナスとは言えないのかもしれないが。


 行列のできる店なんてほどではないにしろ、カレー専門店ゴアはそこそこ繁昌している。

 僕は週に三日、四時から九時まで働いていて、夕食時はいつもほとんど空席を見ることがなかった。

 それがどういうわけか、この日は客の入りが悪く、働き始めて以来こんな暇なことはなかったと言ってもいいくらいだった。


 マスターは、まあ、こんな日もありますよ、と口では軽く流していたが、不安は態度に現れていた。

 しきりに入口のドアの方を気にし、店内をうろうろ歩き回る。


 僕らの知らないうちに日印戦争でも始まって、世間ではカレー排斥運動が盛り上がっているのかもしれない。

 そんなくだらないことを、僕は考えていた。

 しかし、ふざけた空想も小一時間でネタが尽きてしまった。


「マスター、紅茶でも飲む?」


 雇い主にはちがいないが、僕にとってマスターは今も吉田のおじさんだった。

 ぞんざいな口調も、こどもの頃と変わらぬままだ。

 向こうもそれを咎めたりしないし、今になって敬語なんか使いだしたら、かえって気味悪がられるだろう。


「うん、いいね」


 僕はヤカンを火にかけ、流しの前に突っ立って沸くのを待った。


「さっきの話、あたしもちょっと考えてみたんだけどね……」


 マスターはカウンターの椅子にひょいと腰掛けると僕の方を悪戯っぽい眼で見ながら話を切り出した。


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