3.世界を分節する舌(9)
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「十三貝さん、引っ越したんですってね」
彼女はスライドさせていたキューを止め、ビリヤード台に腹這いになったまま顔だけ上げた。
「だれに聞いた?」
「洋子さん」
ちっ、と舌打ちして、十三貝さんはゆっくりキューを突き出した。
白玉は黒い八番に掠めるように当たり、八番は糸で引かれるようにコーナーのポケットに落ちた。
コトン、ガタガタ、ゴットン。
「その話が出たときほかにだれがいたの?」
「ウマノスケがいたかな」
「あいつがいるのはしょうがない。絶対ほかにはだれもいなかったのね?」
僕はうなずいた。
キューの先に丁寧にチョークを擦りつけると、彼女は台をぐるりと回ってこちら側に来ると僕に背を向けた。
サイドのポケットへ九番は六十度よりちょっと厚め。
ラシャの上へ上半身を倒し、僕の方へ黒いスカートに覆われた尻を突き出した。
ビリヤードにはスカートがタイトすぎる。
下着のラインが浮かび上がった。
彼女は知っていて見せつけているのかもしれない。
「どこに越したとか聞いた?」
「いや、引っ越したってことだけ」
「ケータイの番号も変えたの」
「そう言えば、無言電話がかかってくるとか言ってましたよね」
「あなたじゃないでしょうね?」
十三貝さんはキューを突き出した。
九番は落ちるのを嫌ってポケットの口で止まった。
「冗談よ」
僕は手玉の位置をたしかめると慎重に左手でブリッジを作った。
九番はポケットの前で落とされるのを待っている。
これを落とせば僕の勝ちだった。
ほんのちょっと触れるだけで九番は落ちる。
力一杯突く必要もない。
これが落とせないとしたら、そいつはよほどビリヤードの才能のない初心者だろう。
しかし、それは僕のことだ。
僕はブリッジがしっかり決まっているかたしかめ、右肘の角度をたしかめ、まっすぐ突き出せるかたしかめ、上体がぐらついていないかたしかめ、突き出す角度は正しいかたしかめ、これ以上なにをたしかめればいいのかわからないのをたしかめ、深呼吸を一つしてキューを押し出した。
――どうして手玉は転がらず、ジャンプして隣の台まで飛んでいくのか、謎だった。
十三貝さんは簡単に九番を落として、行こう、と言った。
僕は二本のキューを棚に返し、玉を集めてレジへ持って行った。
そこではすでにレザーのロングコートに袖を通した十三貝さんが、釣り銭を受け取るところだった。
ビリヤード屋の階段を降りる。
街は蒼く暮れて、車も人も建物も輪郭を曖昧にしていた。
日の落ちるのが随分早くなった。
「引っ越しの理由が聞きたい?」
「いや、べつに」
正直に答えただけだ。十三貝さんは笑いながら僕の後頭部を平手で叩いた。
僕の頭は空っぽのようにいい音がした。
「だれかが部屋に入ったみたい」
「泥棒?」
「ううん、なにも盗られた物はないの。
ただ、部屋を出たときとはいろんな物の位置がちょっとずれてた。
勘ちがいってことはないよ。
わたしなら絶対に動かさないような場所に移動している物とかあったから」
「やっぱり下着とか盗まれてるんじゃないの? 気がつかないだけで」
「それはない」
彼女はコーヒーショップのドアを引き開けた。
「あれはね、わたしを調べたのよ。わたしって人間を部屋から読み取ろうとしたの、きっと。
――なんにする?」
「ブレンドがいいです」
「ブレンドとカフェ・ラテください。――煙草の吸える席を取っておいて」




