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3.世界を分節する舌(6)

 が、しかし、今「うーん」なのは、カツの半ば冗談のような文章のどこに山口は反論したのかということだった。

 僕なら無視してすますところを、やつは真正面から受けとめて御丁寧にも反論してくださったというわけなのだ。

 ここは一つ、兄に代わって、弟の僕がやつの弁護をしてやらなければならないのだろうか。


「『モンキービジネス』持ってる?」とちさとに訊いてみた。


「うん。あるよ。読む?」

「読まなきゃいけないみたいだし」


 僕は、ちさとが半透明のケースから取り出した四つ折の『モンキービジネス』を膝に広げた。

 その上に粉が落ちるのもかまわずに大福へかぶりつきながら、巻頭記事を読んだ。


 びっくりした。

『水岡カツ君の視野狭窄を嗤う』なんて大時代なタイトルを、二十一世紀になって見ようとは。

 内容もカツに対する反論というには、あまりにもピント外れだった。


 カツ君の視野狭窄とは言い換えると、カツ君は社会派推理小説しか見ていない、ということだった。

 山口に言わせると社会派推理小説なんてものは一過性のブームにすぎなかった。

 そんなものを取り上げて、探偵小説(と山口は書いていた)一般を論ずることは、木を見て森を見ないに等しいということらしい。

 半可通な探偵小説読者がわかったようなことを書くな、と探偵小説マニアが怒っているわけだ。

 そこには古今東西の探偵小説作家や探偵小説批評家の引用が、これでもかとばかりに詰め込まれていた。


 どんな顔をしてカツがこれを読むか想像して、笑ってしまった。

 山口は論点を取りちがえているのみならず、カツを半可通な探偵小説読者だとした点でもまちがいを犯していた。

 いったいどれだけ読んだら半可通でなくなるのかわからないが、ミステリマニアである若菜の父親が自慢する蔵書を十八歳までに読破したカツだ。

 カツが半可通なら健オジだって半可通ってことになる。


 カツはプレス機械の前にいない時間のほとんどを読書に費やす。

 食事中でも、トイレでも、風呂に入っている最中でさえ、カツは本を読んでいる。

 寝るときも睡魔に抵抗できなくなるまで、あえて立ったまま読んでいる。

 文字どおり倒れるように眠りにつくのを僕は何度も見た。

「憑かれたように」とか「命を削るように」とか――

 そんな悽愴な形容句が彼の「読書」にはふさわしい。


 なにも知らない人がカツの読書/生活を見たら驚嘆するにちがいない。

 しかし、僕としては少々複雑だ。

 生来本好きの兄弟なのはたしかだった。

 小さい頃から二人ともよく本を読んだ。

 だが現在の読書量となると僕はとてもカツにおよばない。

 それが悔しいなんてことじゃない。


 カツのこの生活は、三年前の僕らの人生の分岐点からだ。

 カツにとっての読書は「現実逃避」なんてことばでは足りない、徹底した「現実拒否」じゃないかと不安になる。

 カツは自分が選んだ現実に耐えられず、〈自分〉が存在する場所を、〈他人〉の物語や〈他人〉のことばで、埋め尽くそうとしているのかもしれなかった。


「どうだ?」


 不快な声に顔を上げると、小さな椅子にそっくり返った山口が、妙に自慢げな笑みを浮かべていた。


「どうだって言われてもなあ」


 『モンキービジネス』を元通り四つに畳んで、ちさとに返した。


「反論の反論とか、ないわけ?」

「ないよ、べつに」


 書いたのは〈双子の兄〉だとは言わなかった。

 どうせ信じてもらえないなら偽作者になりきる方が楽だった。


「それはおれの批判の正当性を認めたと受け取っていいか」

「どう受け取ろうとそれはおまえの自由だよ、山口」


「ひっかかる言い方だな」

「そう? そんなに裏を読まなくてもいいよ。

 だいたい、問題は山口の文章の正当性なんかじゃないだろう?」


「そうよ」と朝美ちゃん。


「正当性が問題になる場合もあるだろうね」


 ミロクさんが白く細い指で眼鏡を押し上げた。

 彼の眼は微笑っている。

 いつもの微笑だ。

 まるで世界に絶望しているような微笑。


「でも、それはわれわれ全体の問題として水岡の書いたものに対する態度表明が求められるときだろう。

 今回はそうじゃない、と僕は見るよ」


「トモの書いた『世界物語の擬グノーシス的構制』はけして等閑視できるようなものじゃなかったけどね――」


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