1.袋の中の耳(3)
「男の人に話したいんですけど……」
彼女は僕を睨んだ。
「どんな用かによるわ」
僕はクレーマーとかんちがいされたらしい。声にはさらに険があった。
「ちょっと変な物を見つけたんで、届けにきたんです」
「忘れ物? なにを見つけたの? どこで?」
「いえ、忘れ物じゃないです、……たぶん。あの、男の人の方が話しやすい」
「あ、わかった。エッチな物なのね」
女子職員はにっこり笑った。
とげとげしさは微塵もなくなっていた。
エッチな物、という思いつきがそんなに嬉しかったのだろうか。
「これね」とめる間もなく彼女は紙袋を取った。「軽いじゃない」
「開けない方がいいです。気持ち悪い物ですから」
彼女は僕の制止を挑発と受け取ったのかもしれない。
口唇の端を微かに上げて、僕を睨むように見ながら、紙袋の口を広げた。
女子職員の目が紙袋へ下がっていく。
一瞬の動作にすぎないのにスローモーションのように見えた。
すぐにはなにかわからなかったらしい。
彼女は紙袋をゆすった。
カサカサと乾いた音。
眩しいものでも見るように眼が細められた。彼女の眉間に皺が寄る。
僕は、あーあ、と呟いた。
次の瞬間、女子職員は紙袋を僕に投げつけ、天井を仰いで、カチョー、と叫んだ。
事務所のいちばん奥で頭の薄い職員が、わあっ、と跳び上がった。
紙袋から飛び出した耳はリノリウムの床に落ちていた。
ほかに学生がいなくてよかった。
僕は耳を拾い上げ紙袋に戻した。そして、袋の口をしっかりと折った。
◆
僕は学生課の奥にある応接室に連れ込まれた。
皮張りのソファに座らされ、麦茶を出された。
学生課課長はいったん取り上げた紙袋を、僕の前に、麦茶に並べて置いた。
まるで僕の所有物のように。
「警察呼んだから。近いからすぐ来るよ」
と課長は立ったまま言った。
「二時間目の授業があるんですけど、出られないですか」
「どうかなあ。見当もつかない。警察のやることだからねえ」
「特別に出席扱いになるとか、そういうことはないですか」
「悪いけど、そういう決まりはないなあ。出席日数足りないの?」
「いえいえ。皆勤。こんなことで記録が切れるのは悔しいんで」
僕は胸を張った。
小学生じゃあるまいし誉められはしまい。
だが、入学以来僕は一度の欠席も遅刻もない。
真面目だということじゃない。家族に対する僕の義務だ。
学生課課長が部屋を出ていき僕はひとり残された。
警察がいつ来るかわからなかったが、カバンから若菜のノートと自分のを出した。
低くて字の書きづらいテーブルで「日本文学概論」のノートを写し始めた。
僕は法学部だから日本文学科のノートなど本来関係ない。
これは趣味だ。
もともと文学部に行きたかった。
公務員になってほしいという母の願いを聞き入れて法学部に進路変更したものの、文学部の勉強に未練がないわけじゃない。
若菜が一年遅く文学部に入学したとき、面白そうな講義のノートを借りることにした。
趣味だからこそノートをコピーしてすますわけにはいかない。
自分の手で筆写して、意味のわからないところはあとで若菜に質問する。
二年間きちんと続けている。
これは、僕の、僕自身に対する義務だ。
もっとも、こんな習慣のせいで僕は耳を見つけてしまったのかもしれない――。