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3.世界を分節する舌(1)

 翌朝、僕が出かけるとき、カツは布団でニヤニヤしていた。

 両親はすでに家を出たあとでカツだけが残っていた。

 こんなことめったにない。


 早めの夏休みだ、と昨夜カツが言い放ったとき、僕には引っ掛かるものがあった。

 僕の眼が気になったのか、

 ローテーションの関係でおれが初っ端にとらなきゃなんねえんだよ、

 と言い訳のように付け足してカツは肩をすくめてみせた。


 たしかにそんなこともありそうだ。

 しかし、カツの態度はどこか空々しかった。

 夏休みというのは本当だとしても、百パーセント信用するのはやめておこう。

 駅への道をうなだれて歩きながら僕はそう決めた。


 大学に着くとそのまま一時間目の授業に出た。

 その教室に〈パブロフ〉のメンバーはいない。

 名簿のことがあるので連中に会うのはなるべく先送りしたかった。


 教室の真ん中で頬杖をついてぼんやり講義を聞く。

 胡麻塩頭のヒキガエルに似た教授が教卓で呟いていた。

 よく聞こえないし、聞こえてもなにを言っているのかよくわからない。

 教科書の表紙から類推すると、教授が呟いているのはどうやら「国際法」とかいうものらしかった。


 気がつくと僕はノートに耳の絵を描いていた。


 退屈な授業はたいていいつまでも終わらない。

 ヒキガエル系教授はチャイムが鳴っても呟き続けて、五分も授業を延長させた。


 授業から解放されると、僕は面倒に思いながら〈パブロフ〉へ行った。

 幸運にもサークル室にはだれもいなかった。

 しかし、テーブルにメモがあった。


 ――近江屋に集合。


 気持ち悪いほど筆圧が強い。堀井の字だった。


 朝から臨時集会かよ。

 げんなりした。

 名簿を警察に渡したことがそんなに問題になっているとは――。

 近江屋に行きたくはなかったが、ここで顔を見せなきゃ、連中は僕が過失を認めたものと受け取るだろう。

 冗談じゃない。


 僕はまだなにも言われないうちから腹を立てていた。

 自然と早足になって、校門を出るとほとんど小走りに集合場所の和菓子屋へ向かった。


 近江屋は〈パブロフの猿〉が合評会や打ち合わせによく利用する店だった。

 駅と大学の中間にある。

 二階が喫茶室になっていて、下で選んだ菓子を食べられる。

 席料はとらないし、日本茶も無料。

 店を営んでいる老夫婦はいくら長居しても文句を言わない。

 二階が使えることは知られてないらしく、いつ行ってもほかに客の姿を見ないのもいい。


 僕は、きんつばと大福を選ぶと

 ――単価が安いのでひとり二品以上注文するのが二階を利用する際のきまりだった――

 狭い階段を駆け上がった。

 ちょうど昇りきったところで、山口の興奮した声に驚かされた。


「しかたがなかったって言ってるだろ!」


 しかたがなかった?

 ――名簿を渡したことを言っているのだろうか。

 僕は山口に弁護されているのか。


 勘弁しろよ、とひとりごちた。

 弁護されてもありがたくない。

 よりによって山口靖雄に庇われるとは。

 まったくもって不愉快きわまりない。


 「いい人」だとか「やさしい」だとか、無害な人間の代表みたいに思われている僕だが、本当は人一倍短気で、人見知りが激しい。

 で、実は山口が大嫌いだった。

 どこが嫌なのかと訊かれても困る。

 人を斜め四十五度から見上げる目つきや、ピチャピチャいわせる飯の食い方や、喋るときに手がひらひら動くところや、膿んでいるみたいに色の悪い口唇や――

 僕が生理的に受けつけないものの集合のようなやつだ。

 だれも気づいていないようだが、僕から山口に話しかけたことは一度もない。


「どうしてしかたないっていうことになるのかな」


 驚いた。

 ミロクさんの声だった。〈名探偵〉まで出てくるとは。


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