2.もう存在しない指(10)
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村上刑事からの電話は九時寸前にかかってきた。
ほかの家族が出ないように僕は電話の前でパヴェーゼの『美しい夏』を読みながら待っていた。
売春婦に「つまらない人」と言われて自殺した男の小説は、前夜まで僕を夢中にさせていたのに、今はもう一字もすんなりとは頭に入っていかなかった。
だから、読みながら待っていた、というのは嘘で、本当は電話を待ちながら、読んでいるふりをしていた、だけだった。
電話のベルが鳴った瞬間、僕は大腿部の筋肉に電話線が直結されているみたいに撥ね上がり、受話器に跳びついた。
電話で聞く村上刑事の声は昼間よりも落ち着いた感じに聞こえた。電話だからそうなのか、それとも疲れているのか。
「名簿にあった女の子には、全員電話をかけてみたんだよ」
「どうでした?」
「連絡が取れた人はとりあえず全員無事みたいだな。
電話口で嘘をついているのでなければみんな、耳はまだついているはずだ。
電話で連絡がつかなかったのが三人、そのうち二人は縹さんが大学の方で会って確認がとれた。
で、ひとりだけ電話に出ない」
そのひとりがだれか僕にはもうわかっていた。
でも、こちらから十三貝さんの名を出すのは控えた。
いらぬ疑いを招くのはごめんだ。
「十三貝美奈子さんなんだけど、彼女はひとり暮らしだよねえ?」
「そのはずです」
「遅くまでアルバイトしているとか、そういうことあるかな?」
「さあ、わからないですけど、そんな話は聞いてないです。十三貝さんは四年だからそんな暇ないんじゃないですか」
「ああ、就職活動で忙しいってことだ。
どうなの、やっぱり女の子の就職は大変なのかなあ?
サークルの方には全然顔を出さないわけ?」
「ときどき来ますよ」
「君が最後に会ったのはいつ?」
最後ということばが気にかかった。
もう二度と会えないと決めつけられているような気がした。
僕は一週間前だと答えた。
サークル室で十分くらい。
十三貝さんはスーツ姿で、これから面接に行くのだと言っていた。
煙草を一本吸って、最近本を読んでいないといったような話をした。
三時間目の始まりのチャイムと一緒に出ていった。
「二人だけ?」
「いえ、あとはたしか――二人いました。山口靖雄と石垣ちさとがいました」
「二人とも〈パブロフ〉の――略すときはこう言うんだろ?――メンバーだよね。
石垣さんとはさっき電話で話したよ。
彼女は自宅通学なんだね。
彼女も君と同じことを言っていたよ。
一週間前が最後だとさ。
君はそのあと会ったり――見かけただけでもいいんだけど、そういうことはなかったの?」
「なかったです。あの……あれは女の耳にまちがいないんですか」
「うん。鑑識からは、血液型がA型の若い女性という報告があったよ」
「たぶん、田代さんなら十三貝さんの血液型を知ってます」
「ああ、そっちはもう確認できてる。
十三貝さんはA型だよ。条件は合っているね。
だけど、A型の若い女性なんていくらでもいるんだから、あの耳が彼女のものだと断定なんかとてもできない。
今のところ最も可能性のある人物であるにすぎないよ」
村上刑事は僕の不安に気づいていたのだろうか。
十三貝さんを大学で見かけたら連絡してくれ、と付け足して彼は電話を切った。
振り返ると母の咎めるような視線にぶつかった。
彼女はなにも言わずに立ち、風呂場へ行った。
カツを見ると僕が大学の図書館から借りてきた本を読んでいた。
きっと、読んでいるふり、だろう。




