2.もう存在しない指(8)
カツがジャック・ラカンに真剣になったあとも、僕は耳の持ち主のことを考えていた。
――十三貝美奈子かもしれない。
時間が経ち過ぎているだの、だれも知らないはずだの、否定理由を並べてみるが、いったん浮かんだ疑惑は容易く消せなかった。
不安は綿となって喉につまった。
もし、彼女になにかあったのだとして、その責任が僕にあるのか。
僕に耳を置いていくのは不当な言い掛かりじゃないのか。
――こんな心配は嫌らしい。
不安の上へ覆いかぶさるように自己嫌悪が押し寄せた。
やがて、母がパートから帰ってきた。
こんなに早く顔を揃えている息子たちを訝りながら、夕食の支度を始めた。
ザカザカとスパゲティの袋を開ける音がする。
今日もスパゲティ・トマトソースだ、と僕は憂鬱になった。
セリーヌはガキの頃、ヌーユばかり食わされていた。
僕らは借金生活に突入して以来、スパゲティ・トマトソースを親の仇のように食べている。
三代前はイタリア人だと言われても驚かないくらいの頻度だ。
スーパーの安売りでホールトマトの缶詰が一缶八十円を切ると、母は小学生を押し込めそうなくらいのバッグに缶詰を詰め込んで帰ってくる。
スパゲティの安売りの日も同じだ。
おかげで流しの脇にはトマトの缶とスパゲティが常時山積みだ。
母に言わせると、米を食べるよりも安く上がるということだった。
もしかすると、世間にはうちのような家族が五万といるのかもしれない。
だから、スーパーマーケットはあんなに頻繁にトマトの缶詰なんかをセール商品にするんだ。
トマトの缶詰が高級食材だったら、と考えるとゾッとする。
もし、そうだったら、うちは連日、ペペロンチーノを食い続けなくてはならない。
僕らがうんざりしながら、スパゲティ・トマトソースをフォークに巻き付けていると、父が帰宅した。
安物のオリーブオイルの匂いに父は無表情に食卓を眺め、ただいまと病人のような声で言った。
お帰り、と僕らは答え、母は父のためのスパゲティを茹でに席を立った。
父は部屋の隅で、くたびれた背広から、僕が高校の体育で着ていたジャージの上下に着替えた。
団欒といえば団欒だった。
借金があったって冗談くらい言うし、暗く沈んだ雰囲気の中食事をしなければいけないなんて決めはない。
ただ、以前ほど言い争わなくなった。
僕らはじつに喧しい家族だった。
どんな些細なことも口喧嘩の種にした。
朝のニュースの女子アナはだれと結婚したのかとか、上野のパンダは何代目かとか、そんなつまらないことで僕らは大声を張り上げていた。
すぐに忘れて尾を引くことはなかったが、あの騒々しさこそが我が家本来の団欒のかたちだったんだ。
◆
呼び出し音が果てしなく続く。
僕の後ろには、中東の方から来ているらしい男が立っていた。
振り返ると、彼は目をそらし、浅黒く尖った鼻の横をテレフォンカードで掻いた。
ほかにも公衆電話はあるのになんでそっちに回らないんだ、と気味悪くなった。
が、いつまでもつながらない電話に苛立って天井を見上げたとき、自分の勘ちがいに気づいた。
地球マークのプレートがぶら下がっていた。
並んでいる他の電話の上にはそんなものはない。
僕の使っている電話だけが国際通話可能だった。
恥ずかしい。電話を切ると後ろの彼から顔を背けてそこを離れた。
空いていたベンチに座った。
足を上げて膝を抱えた。
膝の間に改札口が見えた。
下りの電車が到着すると階段を登ってきた人々が自動検札機に溜まりそこから右と左へ散っていった。
足早な人。
一歩一歩疲れたように歩を進める人。
いろいろだった。
やがて砂時計の砂がなくなるように改札から人が消えた。
――十三貝さん、どうした?
僕がここにいる理由はもうなかったが、家には帰りづらかった。
ぼんやりしているとどうしても朝見た耳へと頭は戻っていく。
記憶の中の耳は掌ほどに大きかった。
白く鑞のような色をしてとても冷たそうだった。
十三貝さんも耳たぶは小さい。
噛んだことだってある。
しかし、それがあの袋に入っていた耳なのかどうか、わからない。
彼女の耳を、はっきりとは覚えていないのだ。




