9.虫のように柔らかい腹(13)
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バイトの日だったので、ゴアへ直行した。
気が乗らない。
客の注文を聞いたり、カレーを温めたりするのが億劫だった。
あれが吉田のおじさんの店でなかったら、仮病の電話をかけてズル休みしてしまうところだ。
なにも義理立てしているわけじゃない。
マスターには仮病が通じないというだけのこと。
嫌になるほど長いつきあいなのだから。
店に行くと、マスターもげんなりしていた。
理由は訊くまでもなかった。
ひどく暑い。
とてつもなく危ないことをやらかしてしまいそうに暑い。
まだ包丁を握って通りへ飛び出していないマスターの自制心に、近隣の住民は感謝してもいいくらいだった。
午前中からクーラーが壊れている、とマスターは怒っていた。
業者に電話してみたが、月曜まで人をやれないと言われたそうだ。
どうしようか、と訊いてくる。
「どうしようかって?」
「店開けていてもいいかなあ?」
「客がいいって言えばいいんじゃないの?」
「みんな一歩入っただけで帰っちゃうんだよ」マスターは首から提げたタオルで汗を拭いた。「当然だと思いますよ、実際」
「入口のドアを開けておいたらどうかな?」
「さっきまで開けてたんだけどさ、全然変わらないよ。それより排気ガスが臭くってさあ。ここって意外と車が通るんだよね。もう十年も店やってて今日初めて気がついた」
「休みにする?」
「そうしようかあ……」
マスターは無念そうに入口を睨んでいた。
そこへすだれ髪の、顔中に脂の浮いたサラリーマンが入ってきた。
うっ、と呻くなり回れ右して、店を出ていった。
ほらな、とマスターは得意げに言った。
自慢するようなことじゃない。
マスターは、カレンダーの裏に赤いマジックでキュッキュッと「クーラー故障により本日は臨時休業いたします」と書いて窓に貼った。
それから大きなため息を一つつくと、首のタオルで顔中を擦った。
僕らはビールを飲んだ。
二人で大瓶六本を一時間くらいで飲んだ。
ビールは胃に落ちる前に、つむじからひゅうひゅう蒸発するようで、いっこうに酔わなかった。
なにか食いたいな、とマスターが言うので、僕はオイルサーディンの缶を開け、オーブンレンジで温めた。
レモン汁と醤油を垂らし、面倒なので指でつまんで口に運んだ。
「おまえ、卒業したらどうすんだ?」
油まみれの指を振り回して、唐突にマスターが訊く。
僕は指をしゃぶりながら考えた。
僕はいったい、なにになるのだろう?
母の言う通り公務員を目指すか。
あるいは普通のサラリーマンになるべきか。
本当はなにになりたいのか。
なんにもなりたくない、というのが本音かもしれない。
「客商売はやめておけよ。おまえは向いてないから」
「じゃ、カレー屋は駄目じゃん」
「おまえになんか、うちは継がせないよ。期待してたんだったら悪いけどな」
「いや。正直なところ、考えてみたこともなかったよ」
「そうだろうな。もっとも、おまえはそれでいいんじゃないかとあたしゃ思うよ」
「それでいいって――?」
マスターはフランスパンを出してきた。
ちぎって、缶に残った油をつけて口へ運ぶ。
髭が汚れている。
ワイン、飲むか、と言う。
うなずくと、カリフォルニアの赤ワインが出た。
二リットル数百円の、ソムリエに鼻で笑われてしまうような安物だった。
マスターはスクリューキャップをはずして、客に水を出すコップへどぶどぶと注いだ。
カツも呼ぼうぜ、と言う。
僕は店の電話で家へかけた。
なぜか若菜が出た。
ゴアに来るよう、カツへ伝言を頼んだ。
若菜がついてくるのは自明。
僕はへらへら笑いながらカウンターに戻り、まるで渋みのないワインをビールのように飲んだ。




