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9.虫のように柔らかい腹(13)

     ◆


 バイトの日だったので、ゴアへ直行した。

 気が乗らない。

 客の注文を聞いたり、カレーを温めたりするのが億劫だった。

 あれが吉田のおじさんの店でなかったら、仮病の電話をかけてズル休みしてしまうところだ。

 なにも義理立てしているわけじゃない。

 マスターには仮病が通じないというだけのこと。

 嫌になるほど長いつきあいなのだから。


 店に行くと、マスターもげんなりしていた。

 理由は訊くまでもなかった。

 ひどく暑い。

 とてつもなく危ないことをやらかしてしまいそうに暑い。

 まだ包丁を握って通りへ飛び出していないマスターの自制心に、近隣の住民は感謝してもいいくらいだった。


 午前中からクーラーが壊れている、とマスターは怒っていた。

 業者に電話してみたが、月曜まで人をやれないと言われたそうだ。

 どうしようか、と訊いてくる。


「どうしようかって?」

「店開けていてもいいかなあ?」

「客がいいって言えばいいんじゃないの?」

「みんな一歩入っただけで帰っちゃうんだよ」マスターは首から提げたタオルで汗を拭いた。「当然だと思いますよ、実際」

「入口のドアを開けておいたらどうかな?」

「さっきまで開けてたんだけどさ、全然変わらないよ。それより排気ガスが臭くってさあ。ここって意外と車が通るんだよね。もう十年も店やってて今日初めて気がついた」

「休みにする?」

「そうしようかあ……」


 マスターは無念そうに入口を睨んでいた。

 そこへすだれ髪の、顔中に脂の浮いたサラリーマンが入ってきた。

 うっ、と呻くなり回れ右して、店を出ていった。

 ほらな、とマスターは得意げに言った。

 自慢するようなことじゃない。


 マスターは、カレンダーの裏に赤いマジックでキュッキュッと「クーラー故障により本日は臨時休業いたします」と書いて窓に貼った。

 それから大きなため息を一つつくと、首のタオルで顔中を擦った。


 僕らはビールを飲んだ。

 二人で大瓶六本を一時間くらいで飲んだ。

 ビールは胃に落ちる前に、つむじからひゅうひゅう蒸発するようで、いっこうに酔わなかった。

 なにか食いたいな、とマスターが言うので、僕はオイルサーディンの缶を開け、オーブンレンジで温めた。

 レモン汁と醤油を垂らし、面倒なので指でつまんで口に運んだ。


「おまえ、卒業したらどうすんだ?」

 油まみれの指を振り回して、唐突にマスターが訊く。


 僕は指をしゃぶりながら考えた。

 僕はいったい、なにになるのだろう?

 母の言う通り公務員を目指すか。

 あるいは普通のサラリーマンになるべきか。

 本当はなにになりたいのか。

 なんにもなりたくない、というのが本音かもしれない。


「客商売はやめておけよ。おまえは向いてないから」

「じゃ、カレー屋は駄目じゃん」

「おまえになんか、うちは継がせないよ。期待してたんだったら悪いけどな」

「いや。正直なところ、考えてみたこともなかったよ」

「そうだろうな。もっとも、おまえはそれでいいんじゃないかとあたしゃ思うよ」

「それでいいって――?」


 マスターはフランスパンを出してきた。

 ちぎって、缶に残った油をつけて口へ運ぶ。

 髭が汚れている。

 ワイン、飲むか、と言う。

 うなずくと、カリフォルニアの赤ワインが出た。

 二リットル数百円の、ソムリエに鼻で笑われてしまうような安物だった。

 マスターはスクリューキャップをはずして、客に水を出すコップへどぶどぶと注いだ。

 カツも呼ぼうぜ、と言う。

 僕は店の電話で家へかけた。

 なぜか若菜が出た。

 ゴアに来るよう、カツへ伝言を頼んだ。

 若菜がついてくるのは自明。

 僕はへらへら笑いながらカウンターに戻り、まるで渋みのないワインをビールのように飲んだ。


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