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9.虫のように柔らかい腹(12)

     ◆


 サークル室には、春樹が残っているだけだった。

 退屈そうに鶴を折っていた。

 器用に折られた黄色い鶴は幸福そうに見えた。

 堀井は? と訊くと「及川さんに連れ去られちゃいました」とぶっきらぼうに答えた。


「春樹も一緒に行けばよかったじゃん」

「だって、トモさんのバッグがあるじゃないすか」


 春樹は、ベンチに置かれた黒いカバンへ、あごをしゃくった。


「盗られるようなもんなんて入ってないよ。気にしなくてよかったのに」

「及川さんに、ついてこないでって言われちゃったんです」

「堀井は、ついてきてくれって言わなかったの?」

「うーん、及川さんに腕を抱えられてにやけてましたよ。みんな唖然としてました。あの人、馬鹿じゃないっすかね?」

「今頃気がついたって遅いよ」


 十三貝さんの脚が見つかったことは、春樹に教えなかった。

 あわてて〈パブロフ〉のメンバーに知らせなくても、明日の朝刊を見ればわかることだ。


「ちさとちゃん、かわいそうでしたね」

「じゃあ、なんでかばってやらなかったんだ?」

「そういう雰囲気じゃなかったっすよ。

 山口さんはわけのわからないことを話してるし、高畑先輩は怒鳴ってるし――。

 ちさとちゃん、もうここには来ないでしょうねえ」


 たぶんね、と答えて僕はサークル室を出た。


 校門に向かう途中で、カツに頼まれた本を思い出し、図書館へと踵を返した。

 二階へ上がる螺旋階段を登りながら、僕はちさとのことを考えていた。


 脚を見たことで、彼女に対する疑念は、完全に消えていた。

 逆恨みが動機なら、耳をサークル室に置いたり、乳首を郵送したり、脚を車のトランクにしまったりするような小細工は必要ない。

 猟奇殺人に見せかけて嫌疑を逃れる狙いなら、自分のいるサークルに耳を置いたりはしないだろう。


 たしかに十三貝さんに近づくために、ちさとはこの大学を選んだのかもしれない。

 しかし、それは彼女に復讐するためじゃない。

 なにか別の理由が――。


 二階にはだれもいなかった。

 貸出窓口では、いつもの司書があくびしていた。


 ここには、蔵書カードの戸棚と検索用端末の両方がある。

 混んでいても、コンピュータの順番を待って並ぶ人が多い。

 僕はたいてい戸棚の方へ行く。

 目当ての本もなく、漠然と食指の動く本を探しにきた人間が、コンピュータを長時間占拠するのはよくない。


 しかし、今日は借りる本が決まっていたので、端末の前に立った。

 著者名「ラカン.ジャック」で検索をかけた。

 呼び出された画面の上から三行目までが『エクリ』だった。

 二行目『エクリⅡ』に「貸出中」の表示がある。

 そいつは僕のカバンに入っている。

 その下にある『エクリⅢ』の書名とコードを貸出票に記入して、窓口に持っていった。

 借りていた本と自分の図書館カードの上に貸出票を乗せて、窓口へ押し入れる。


 司書は、興味もなさそうに貸出票を一瞥すると、返却した二巻目の『エクリ』を持って席を立った。

 すぐに三冊目の『エクリ』を持って戻ってきた。


「ねえ、こういうのやるんだけど、出てみない?」と司書が言った。


 彼女がすべらせてきた黒い『エクリ』の上には、ハガキ大の黄色い紙が乗っていた。

「スラヴォイ・ジジェク読書会」のお知らせだった。

 日時と場所を見ると、夏休みに入ってから、大学でやるらしい。

 カツに教えてやろう。

 そのときまだ失業中なら、僕のふりをして出ればいい。

 指の数が一、二本ちがったって、ほかの出席者にわかるはずがない。


「考えてみます」と僕は答えた。

「きっと勉強になるわ」と彼女は言った。


 そいつは残念だ、と僕は呟いたが、おそらく司書には聞こえなかっただろう。


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