9.虫のように柔らかい腹(12)
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サークル室には、春樹が残っているだけだった。
退屈そうに鶴を折っていた。
器用に折られた黄色い鶴は幸福そうに見えた。
堀井は? と訊くと「及川さんに連れ去られちゃいました」とぶっきらぼうに答えた。
「春樹も一緒に行けばよかったじゃん」
「だって、トモさんのバッグがあるじゃないすか」
春樹は、ベンチに置かれた黒いカバンへ、あごをしゃくった。
「盗られるようなもんなんて入ってないよ。気にしなくてよかったのに」
「及川さんに、ついてこないでって言われちゃったんです」
「堀井は、ついてきてくれって言わなかったの?」
「うーん、及川さんに腕を抱えられてにやけてましたよ。みんな唖然としてました。あの人、馬鹿じゃないっすかね?」
「今頃気がついたって遅いよ」
十三貝さんの脚が見つかったことは、春樹に教えなかった。
あわてて〈パブロフ〉のメンバーに知らせなくても、明日の朝刊を見ればわかることだ。
「ちさとちゃん、かわいそうでしたね」
「じゃあ、なんでかばってやらなかったんだ?」
「そういう雰囲気じゃなかったっすよ。
山口さんはわけのわからないことを話してるし、高畑先輩は怒鳴ってるし――。
ちさとちゃん、もうここには来ないでしょうねえ」
たぶんね、と答えて僕はサークル室を出た。
校門に向かう途中で、カツに頼まれた本を思い出し、図書館へと踵を返した。
二階へ上がる螺旋階段を登りながら、僕はちさとのことを考えていた。
脚を見たことで、彼女に対する疑念は、完全に消えていた。
逆恨みが動機なら、耳をサークル室に置いたり、乳首を郵送したり、脚を車のトランクにしまったりするような小細工は必要ない。
猟奇殺人に見せかけて嫌疑を逃れる狙いなら、自分のいるサークルに耳を置いたりはしないだろう。
たしかに十三貝さんに近づくために、ちさとはこの大学を選んだのかもしれない。
しかし、それは彼女に復讐するためじゃない。
なにか別の理由が――。
二階にはだれもいなかった。
貸出窓口では、いつもの司書があくびしていた。
ここには、蔵書カードの戸棚と検索用端末の両方がある。
混んでいても、コンピュータの順番を待って並ぶ人が多い。
僕はたいてい戸棚の方へ行く。
目当ての本もなく、漠然と食指の動く本を探しにきた人間が、コンピュータを長時間占拠するのはよくない。
しかし、今日は借りる本が決まっていたので、端末の前に立った。
著者名「ラカン.ジャック」で検索をかけた。
呼び出された画面の上から三行目までが『エクリ』だった。
二行目『エクリⅡ』に「貸出中」の表示がある。
そいつは僕のカバンに入っている。
その下にある『エクリⅢ』の書名とコードを貸出票に記入して、窓口に持っていった。
借りていた本と自分の図書館カードの上に貸出票を乗せて、窓口へ押し入れる。
司書は、興味もなさそうに貸出票を一瞥すると、返却した二巻目の『エクリ』を持って席を立った。
すぐに三冊目の『エクリ』を持って戻ってきた。
「ねえ、こういうのやるんだけど、出てみない?」と司書が言った。
彼女がすべらせてきた黒い『エクリ』の上には、ハガキ大の黄色い紙が乗っていた。
「スラヴォイ・ジジェク読書会」のお知らせだった。
日時と場所を見ると、夏休みに入ってから、大学でやるらしい。
カツに教えてやろう。
そのときまだ失業中なら、僕のふりをして出ればいい。
指の数が一、二本ちがったって、ほかの出席者にわかるはずがない。
「考えてみます」と僕は答えた。
「きっと勉強になるわ」と彼女は言った。
そいつは残念だ、と僕は呟いたが、おそらく司書には聞こえなかっただろう。




