9.虫のように柔らかい腹(10)
十分後、僕はマンションのファサードにぺったり座り込んで、膝の下を行進する蟻を数えていた。
縹刑事は僕の前に立ち、白いタオルで顔の汗を拭っていた。
「残念なことになってしまいました」と彼は言った。
「見つかったのは脚だけですか」
「脚だけです」
「脚を切られたからって死んでいるとは限らないですよね?」
縹刑事は哀れむように、僕を見た。
軽蔑されている気がした。
しかし、腹は立たなかった。馬鹿な質問だった。
シートのめくれる音がして、駐車場の方を見ると、刑事がひとり、濃紺の布に包んだ長いものを抱きかかえて、ワゴン車へ運んで行こうとしていた。
その刑事の顔が赤いのは、暑さのせいばかりではなかったろう。
刑事の前でワゴン車のスライドドアが開き、刑事が乗り込むと閉まった。
まるで何度もリハーサルを繰り返したような、よどみない流れだった。
ワゴン車のエンジンがかかり、バターが溶けて流れるように走り去った。
パトカーが残っていた。
女の顔が、窓に貼り付いていた。
十三貝さんの母親は、僕を見ていた。
その眼には、憎悪しかなかった。
ただ一つの感情だけを、そんなに強く発している眼を見るのは、初めてだった。
僕は顔を背けた。
「捜査本部が置かれることになりそうです」
どこかから戻ってきた村上刑事が縹刑事に言った。
そりゃそうだろう、と縹刑事はそっけなく答えた。
「ちょっと母親と話してくるよ。
まあ、今はなにも聞きだせないだろうが……。
冷静になってくれなんて残酷なことはとても言えないからね。
――幾つでも子どもを亡くすのはつらいもんだ」
縹刑事は村上刑事の肩を叩いて、パトカーへ向かった。
僕に向けられた、母親の視線を遮るように、歩いていった。
窓へ身をかがめて、母親に二言、三言ことばをかけると、車の反対側へ回った。
彼は、車の屋根越しに僕を見た。
興味のわかない珍獣でも見るような眼だった。
そして、彼はパトカーに乗り込んだ。
「他人事じゃないんだよ。あの人も子どもを亡くしてるからな」
「事故ですか」
「まあ、そういうことになるかな。……ひき逃げだよ。犯人はまだつかまっていない」
僕は村上刑事を見上げた。
彼は、両手をポケットに突っ込んで、パトカーを見ていた。
ワイシャツの背中が、汗で濡れていた。
「さて。送って行こうか」村上刑事は僕を振り返った。「大学に戻るだろ?」
そのとき僕は気づいた。
僕がここへ呼ばれる必要はなかった。
あの脚を十三貝さんのものと確認できる人間は、すでにここにいたのだから。
あのタトゥーを見たことさえあれば……。
「どうした?」
うんざり顔の村上刑事は、僕の眼を見て、足を止めた。
怯えたような、怒ったような顔に変わった。
「最低だ」と僕は呟いた。
◆
大学に戻ると、ウマノスケがいた。
噴水の横を、黒い大きなキャリーバッグを引いて、ビデオカメラを覗きながら歩いていく。
いつもの姿だ。
ビデオ日記の最新作、日常生活を中心に撮っているシリーズ三作目の上映会が近づいていた。
もう日程や場所が決まっているかもしれない。
それを聞いておこうと、ウマノスケに近づいていった。
しかし、上映会の予定を聞くというのは、自分を騙す方便にすぎなかった。
自分に嘘をつく理由ってなんだろう?
自分の弱さを直視したくないとか。
わが身の穢さを隠しておきたいとか。
そんなもんか。
このとき僕が直視できなかったのは、十三貝さんへの執着だった。
どれほど十三貝美奈子という女性を大事に考えていたのか、切断された脚を見て、彼女の死が不可避の現実となってはじめて、理解した。
しかし、それを認めたくない自分がいた。
十三貝さんを喪って悲しいというなら、なぜ彼女に捨てられたとき泣かなかったのか。
どうしてあそこで素直にならなかったのか。
今さら泣いていいはずがない。
僕は、ウマノスケの撮った、十三貝さんの映像が欲しかった。
笑っている十三貝さん、退屈している十三貝さん、歩いている十三貝さん、薄着の十三貝さん、喋っている十三貝さん、酒を呑んでいる十三貝さん、読書中の十三貝さん、ハサミで紙を切る十三貝さん、猫と十三貝さん、寝そべった十三貝さん、アカンベーの十三貝さん、恥ずかしい十三貝さん、怒っている十三貝さん、美しい十三貝さん、踊る十三貝さん、後ろ向きの十三貝さん、アップの十三貝さん、だれかの背後を通り過ぎる十三貝さん、睡眠中の十三貝さん、そして、僕と十三貝さん。
ウマノスケのパソコンには、十三貝さんの映像が何十分も保存されているはずだった。
彼女は、洋子さんの親友ということで、彼に撮られる機会が多かった。
僕がまだ見たことのない映像も残っているにちがいなかった。




