9.虫のように柔らかい腹(9)
僕を突き飛ばした「まんまるきもの」の正体は及川だった。
彼女はアルミサッシの窓枠をつかんで、「歳クン、いる??」と〈パブロフの猿〉名目代表堀井を、ファーストネームで呼んだ。
うぎゃあ、と悲鳴が聞こえた。
意外にも堀井ではなく春樹の声だった。
サークル棟の出口から、ちさとが駆け出していくのが見えた。
追いかけようと起き上がった僕だったが、洋子さんが引き止められた。
警察が呼んでいると言う。
あの縹という刑事が、僕に用事らしい。
「車を寄越すって。校門の前で待っていてくれってさ」
「村田の件は?」
「こっちへ来るついでに学生課に頼んでみるって言ってたわ。それより、トモ、あんた、なんで呼ばれるのよ?」
「わかるわけじないじゃん」
白砂咲子との面会だけはごめんだ。
しかし、警察の呼出しを拒否するのは心証を悪くするだけだろう。
カバンを〈パブロフ〉の窓に放り込み、日影を縫って校門へ向かった。
◆
マンションの前に、パトカーと警察のワゴン車が停まっていた。
パトカーの後部座席に、中年女性が見えた。
前髪に紫のメッシュを入れているその女性は、両手でハンカチを揉むように握りしめていた。
近づいていくと目が合った。赤い眼だった。
刺すような眼で、僕を凝視していた。
これが白砂咲子――十三貝さんの母親か。
想像していたよりも若い。
十三貝さんと並んでも親子には見えないだろう。
嫌な感じだった。
見てはいけない人を見てしまった。
肌がひりひりする。
遠くにあって、つかみどころのなかった現実が、直に身体を押し包んでくる。
十三貝さんの部屋へ上がるのではなかった。
マンションの正面を通過して、陽の当たらない建物側面の駐車場へ連れて行かれた。
いちばん奥のスペースが、青いシートで囲われていた。
村上刑事は、シートの継ぎ目から僕を中へ押し込むと、ここだ、と小声で言った。
立体式駐車場の下の段が上がっていた。
いつもは地下にある、十三貝さんのシルバーブルーの車が、そこにあった。
二つのドアがどちらも開けられ、運転席側から鑑識課員らしい制服が上半身を中へ入れていた。
車の前に縹刑事がいた。
「お忙しいところ御足労願いまして申し訳ありません」
いかにも縹刑事らしい慇懃な物言いだったが、これまでにない緊張がその声にはあった。
「お母さんではどうにもならなかったので、あなたにお願いしたんです。
なに、身許の確認をしてほしいだけなんですがね。
あなたを脅かすつもりはないので、これからなにを見てもらうか、先に言っておきます。
あまり気持ちのいいものじゃありません。
切断された脚です。左右揃っています。
ビニールで何重にも包まれて、車のトランクに入っていたんです。
これが十三貝美奈子のものなのかどうか、それをあなたにたしかめてほしい」
「でも、どうして僕なんですか。自信がありません。彼女の母親にもわからないものを僕がわかるはずないです」
「いや、あなたならわかるはずです」
縹刑事は肘を掴んで半ば引きずるように、僕を車の後ろへ連れて行った。
腐肉の、頭痛を誘う甘い匂いが漂っていた。
開いたトランクの傍らに、カメラを提げた鑑識課員が苛立ったような顔で、突っ立っていた。
僕はトランクを覗き込んだ。息を呑んだ。
なにを見るかわかっていたのに、実物は圧倒的な存在感で僕の眼に飛び込んできた。
白い脚が二本、行儀を気にしているみたいに揃っていた。
赤黒い切断面は広く、腿も膝も十三貝さんの痩せた身体に付いていたにしては太すぎるように見えた。
右の親指に巻爪の手術の痕があった。
そういう痕は、十三貝さんにもあった。
しかし、巻爪なんて珍しくもない。
手術痕だけで決めつけていいのか。
これを彼女のだと言うことは、彼女の死を認めることだ。
「わかりません」と僕は答えた。
縹刑事が脚へ手を伸ばした。
短い指で切断箇所のすぐ下を指した。
「ここ。ここを見てください」
そこには黒いシミのようなものがあった。
なんだろう。
眼をこらす。
吐き気、吐き気。
顔を背けたい感情を抑えつける。
嫌がる眼がようやく、黒いシミに焦点を結んだ。
小さなタトゥー。並んだダイス。四と三の目。
くらっときた。
膝をつきそうになったのを、村上刑事に抱きとめられた。
「大丈夫?」
僕は振り返らずにうなずいた。
「どうでしょうか」
縹刑事の声が鈍く聞こえる。
僕は眼を閉じていた。
「彼女にまちがいありません」と声がした。
だれだろう。だれが答えているんだろう。
声はたしかに僕の声だった。




