9.虫のように柔らかい腹(8)
意外な名前が出てきた。
山口も三年前の事件に気づいたのか。
しかし、朝美ちゃんは、山口をあんなに嫌っていたのに、どこで話をしたのだろう?
わからないのがサークルの人間関係だ。
堀井と及川のことがあるから、朝美ちゃんと山口の間にもなにかあったのかと疑ってしまう。
「山口さんが来たんですよ」と春樹が言った。「山口さんが石垣さんを問い詰めたんです。そのせいで泣いちゃったんです」
春樹の説明を聞いているうちに、腹が立ってきた。
やめたはずの人間がサークル室へ顔を出したことはいい。
それをとやかく言うほど狭量じゃない。
気に入らないのは、山口が探偵を気取っていることだ。
いや、それだってどうでもいい。
頭にくるのは、人が隠していることを、ペラペラとほかの人間の前で口にする無神経さだった。
〈探偵〉なんてつまらないことばに、それを許す大義名分があるなんて、山口は信じているのか。
居合わせたら、僕はやつを殴っていただろう。
「泣くなよ、ちさと」
僕は窓から手を差し入れ、突っ伏しているちさとの頭を撫でようとした。
でも、僕の腕は短く、彼女の髪にはとどかなかった。
……いつもそうだ。
「トモはどうよ? ちさとは十三貝さんに近づくために、わたしを騙して利用したってことだよね」
「いいじゃん」と僕は答える。
「いいじゃんって――」
「騙されたって利用されたっていいだろ。相手はちさとなんだから赦してやれよ」
「どういう理由よ? ちさとならいいって言うの?」
朝美ちゃんは、僕がちさとに伸ばした手をつかんだ。
無茶苦茶なことを言っているのは、自分でもわかっていた。
しかし、ちさとの涙の前では、朝美ちゃんの怒りには眼を瞑ろう。
これは僕の無神経さだ。
だれかに殴られるかもしれない。それでかまわない。
目前の出来事にはまるで無関心で、惚けたように口を半開きにして、天井を見上げていた堀井が、呻くように言った。
「そんなこと大した問題じゃない」
「問題よ!」
朝美ちゃんが怒鳴った。
堀井はぴくりとも反応しない。
すでにリヴィングデッド状態だった。
及川に魂を喰い尽くされてしまったらしい。
ポプラの下から、洋子さんが「番号!」とわめく。
とりあえずここへ来た目的を果たさなくては――。
僕は春樹からカバンを受け取ると、二人の刑事の名刺を探した。
いちばん底に、縹刑事と村上刑事の名刺が重なっているのを見つけた。
村上刑事の名刺の裏には、彼のプライベートの携帯電話の番号も手書きされていたが、洋子さんへは表に印刷された城南署の電話番号を怒鳴り返した。
「わたしを使って、十三貝さんに近づいたってことでしょう?」
「それだけってわけでもないんじゃないの」と僕は答えた。
――が、突っ伏したちさとを冷たく見下ろしている朝美ちゃんの、そこに憤りが溜まっているかのように赤々と突き出した下唇を見ると、もうどうやってこの場を納めたらいいのかわからなくなってきた。
男の僕が、しかもちさとの味方なのはだれにも明白な僕が、ここでなにを言っても、火に油を注ぐだけだろう。
元気だった頃の父は、自分に八方塞がりの局面を打開する能力があるという妄想の下、こんなときにはかえって事態を悪化させる言動をとったものだった。
僕にもやはり父の血が流れている。
もうどうにもならないとわかっているのに、それでも「僕がどうにかしなくちゃ」と自らを恃む気持ちがある。
しかし閉塞状況を打ち破ったのは僕ではなかった。
僕が、父なみにトンチンカンなことを言ってやろう、とかまえたとたん――
なにか「まんまるきもの」が横からぶち当たってきて、僕は隣の美術サークルの部屋の窓の下へ、カバンを抱えたまま転がされた。
美術サークルの窓から、短いピンクの髪をツンツンに立たせた女の子が、顔を出した。
「やあ、トモ。ダンゴムシみたいだねえ」
彼女は僕を見下ろして言った。




