9.虫のように柔らかい腹(7)
「十三貝美奈子が(ハァハァ)バイトしたはず。(ハァハァ)彼女が担当した(ハァハァハァ)ゼミの名簿を(ハァハァ)」
「そんなのすぐ出せないし、学生のあなたに見せられるものでもないわ。それくらい子どもじゃないんだから、わかるでしょう」
洋子さんはカウンターを平手で叩いた。
僕は首をすくめたが、女子職員は平然としていた。
しかし、啖呵を切ると見えた洋子さんは、「そりゃそうだ!」とやけに明るく言っただけだった。
カウンターを叩いた音に剣呑だと思ったのか、学生課課長が机の間を泳ぐように、僕らの前へやってきた。
「おや、君」と彼は、僕を見て言った。「また君なの?」
洋子さんはいささかオーバーアクション気味に、携帯電話を片手で開いた。こちらを振り返る。
「トモ、刑事の名刺を出して」
僕は両手を振って答えた。
「ないよ。カバンの中だ。で、カバンは〈パブロフ〉に置いてある」
「いつもながら使えないやつよね、トモ君って!」
僕らは、呆気にとられた学生課職員を残して、〈パブロフの猿〉へ走った。
走りながら僕は、このドタバタにはどういう意味があるのか説明を求めた。
洋子さんは、眩しそうな眼で、僕を振り返った。
夏の光が彼女を包んでいた。
世界に氾濫し、すべての物質の輪郭の内部へ、浸潤しようとしている光。
そして、彼女の答えもまた、白光の中に溶解し、消え去ってしまいそうなものだった――
夏期休暇や冬期休暇の期間、うちの大学では空いた教室を使って、市民公開講座が設けられる。
大学のカルチャーセンター化だと嘆く人もいるが、各学部学科から講師が出てきて、学外の一般市民対象に行う「ミステリとして読むマクベス」だの、「五日間で理解するフェルマー定理の証明」だの、「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム《プレステ版》」だの「日常の化学/リゼルグ酸を精製しよう」だのといった短期集中講座は、概ね評判がいい。
教員の小遣稼ぎとしても悪くないらしい。
ただ、休暇期間中のイベントであるため、授業の運営については大学職員だけでは人手が足りず、毎回数名の学生アルバイトを雇っている。
去年のゴールデンウィーク。
十三貝さんは、研究室の紹介で、そのアルバイトをしたのだった。
洋子さんの記憶によれば、日記の村田とは、そのとき知り合ったのだという。
アウディに乗っている村田は、「弥次さんと喜多さんの秘められた過去」という講座の生徒だったらしい。
もっとも、洋子さんの記憶はえてしてあてにならない。
これまでのつきあいで、僕はよく知っていた。
刑事に電話をかけて、警察に公開市民講座の生徒名簿を調べさせるという心算はわかったが、期待なんかしなかった。
こんなことで大学通りを全力疾走したり、キャンパスを右往左往したりするのは、汗をかくだけ損のような気がした。
◆
〈パブロフの猿〉には、ちさとがいた。
まだ会いたくない相手だったが――さらに悪いことに、彼女は泣きじゃくっていた。
狭い部屋はすでに定員いっぱいで、僕は窓の外に立っていた。
頭上に白い太陽。
チリチリと頭髪の焦げる音がする。
「だれのせいだよ?」
と僕は、窓から頭だけ、サークル室の中に突っ込んだ。
洋子さんは少し離れたポプラの木蔭で、携帯電話を片手に仁王立ち。
「番号、番号」と堪え性もなくわめいていた。
「べーつにー。だれのせいでもないな。勝手に泣き出したのよ」
扁桃腺に食塩を擦り込んだような、しわがれ声で答えたのは朝美ちゃんだった。
「赤ん坊じゃあるまいし、わけもなく泣き出すやつがいるかよ」
「知らない。わたしは昔の名前を訊いただけだよ」
「昔の名前って――朝美ちゃん」
「エー、君だって知りたがっていただろ。わたしはちさとが本当に寺島だったのか知りたかったんだ」
「どうしてその名前が出てくるんだ?」
昨夜の電話で、朝美ちゃんに「寺島」の名を出した覚えはなかった。
彼女はどこからその名を知ったのだろう。
「山口に聞いたの」




