9.虫のように柔らかい腹(6)
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十三貝さんは、シフトレバーに乗せていた手をこわごわ持ち上げて、ラジオのチャンネルボタンを押した。
国産のヒップホップが、眠くなりそうなクラシックに変わる。
僕はシートの位置が気に入らなくて、大学の駐車場からずっと前に出したり、後ろに引いたりしていた。
ベストポジションが見つからない。
足の長さからして、いちばん前でも精一杯後ろでもないのはたしかだ。
「なにやってんのよ?」
「いやあ、具合が悪くって」
「元の位置に戻しておいて。そんな前に出てきたら、あなたの頭がじゃまでそっちから来る車が見えない」
十三貝さんは怒っていた。
叱られるようなことじゃないはずだが、黙って彼女の言うとおりにした。
十三貝さんは、車に乗ってからずっとぴりぴりしている。
反射神経が鈍いらしい。
トロトロと亀のように走らせていた。
きっと合流が恐くて、免許を取ってから一度も高速に乗ったことがないなんてクチだろう、と僕は想像した。
「煙草ちょうだい」
「へ?」
煙草なら、ダッシュボードに乗せた小物入れにあった。
自分でそこに置いたのを忘れてしまったわけでもないだろうに。
「今、ハンドル握ってんだから。あなたが取ってくわえさせて」
そういうことか、と僕は彼女の口唇に細い煙草をくわえさせ、ライターで火をつけてやった。
灰皿へ灰を落とすのもやらされた。
もしかすると、これは〈わがままお嬢様〉と〈言いなり使用人〉といった設定のソフトSMなのか。
だが、彼女の緊張した横顔を見る限り、遊びの要素は皆無らしかった。
ハンドルを握っているだけで、十三貝さんにはもうそれ以上の余裕がなかった。さっきラジオのチューニングを変えたのも、実は命懸けの行為だったのかもしれない。
へその辺りがむずむずしてきた。
ハンドル操作のミスひとつで、車は塀に衝突するか、だれかの家の玄関に突っ込むか、いずれにせよ僕は死んでしまうだろう。
自分の死。存在の消滅。
そして、僕はたしかに〈今ここにこうして存在している〉と実感した。
同乗者に自己実存への気づきを強制する――まったくなんて哲学的運転なんだ!
目的地へ着いたとき、僕は全身汗で濡れていた。
「意外に臆病なんだ、十三貝さん」
彼女は数十分ですっかりやつれきっていた。
げんなりした顔で僕を睨む。
事故るよりマシでしょ、と囁くように言った。
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ゴールデンウィークというので、洋子さんにはピンときたらしい。
彼女は昨日と同じように僕を急かして、大学へ向かった。
初めは早足だったのがどんどんスピードを上げて、僕の右手をつかんだまま校門を走り抜けた。
研究棟、噴水、と前傾姿勢で疾走し、学生課にはほとんどドアのガラスを突き破りかねない勢いで飛び込んだ。
洋子さんはカウンターへのしかかるように身を乗り出して、大学職員の鼻先へ、ぐっ、と自分の顔を突き出した。
「な、なに?」
上半身を反らして、少しでも洋子さんから距離を開けようとしていたのは、あの朝、僕の手から紙袋をひったくって中を覗いた女子職員だった。
彼女は、僕が後ろに立っているのに気づくと、眉ねに皺を寄せ露骨に嫌な顔をした。
「去年の市民公開講座」とだけ言って、洋子さんは息を吸った。
「なんなの? それがどうかしたの?」
女子職員が無愛想に答えた。
しかし、よく見るときれいな人だった。
無愛想なのに……きれいなんてなあ……あ、でも、無愛想だからこそきれいに見えるのか。
――洋子さんの急転直下の行動についていけなかった僕は、乱れた息を整えながら、ボケッとそんなことを考えていた。




