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9.虫のように柔らかい腹(5)

「なんなのよ、及川ったら!」


 憤懣やるかたないという顔で、洋子さんは僕を睨んだ。

 近江屋の婆さんにまで喋るのは、たしかにやりすぎだ。

 洋子さんが怒るのは理解できたが、なんで僕が睨まれるのかわからない。


「今日の及川は特別だからしかたない」

「特別ってなんなの、それ?」

「詳しいことは僕の口からはちょっとね。直接本人に訊いてよ。もっとも、訊かないうちに、あっちから喋るかもしれないけど」


 僕は熱い茶碗を口に運んだ。

 及川と堀井のカラミなんて、想像するだけで脳みそがしびれそうになる。


「そいでさあ、あんた、本当なの?」


 婆さんはしつこかった。

 よくわからない、と僕が答えると「だって、あんた、家に行ってみたんでしょ」と突っ込んできた。

 なんでそんなことまで知ってる?

 及川の馬鹿はいったいどこまで話したのだろう?

 昨日までは、こんなにペラペラと、なんでも軽く喋ってしまうようなやつじゃなかったはずだ。

 あいつ、処女膜どころか、もっと大切なものを失くしちまったんじゃないか。


「男だね」と近江屋の婆さん。

「へ?」

「男関係にきまってる」

 婆さんは声も強く、そう言い切った。


「なに言ってんの、お婆ちゃん?」

 洋子さんは眉をひそめた。

「あたしゃ見たからねえ。美奈子ちゃんが変な男と一緒にいるの、見ちゃったのよお」


「変な男って坊主頭で、筋肉隆々の――」と僕が言いかけたところで、洋子さんの拳が前額部を直撃した。

「そりゃわたしのオトコだ! おまえの頭ん中じゃ〈変な男〉イコール〈古屋正隆〉か!」

 と、もう一発殴られた。


 しかし〈変な男〉と聞いてまず浮かぶのは、冗談なんかじゃなく、あの舞踏用サイボーグなのだ。

 なにしろ「身体が〈ある〉ってことをたしかめる」と言って、畳の上で一週間仰臥し続けた男である。

 その間、寝返りさえもうたず、食事も採らず、排便すらそのまますませたのだ。

 異臭がするとの隣人からの苦情で、様子を見にきたアパートの大家に、脱水症状で意識不明になっているのを発見されなければ、そのまま死んだかもしれない男である。

 その一件でアパートを追い出され、実家に戻ったものの、舞踏家の父親には、「肉体の確信までは到らなかった」と、頭を下げたという。

 ――いくらそうした諸々の奇行が、洋子さんとつきあう以前のこととはいえ、古屋さんが〈変な男〉でなくて、いったいだれが〈変な男〉になれるというのだろう。


「ありゃありゃ、暴力はいけないよ、あんた。

 ――いやね、ゴールデン・ウィーク中の話なんだけど、ほら、大学がお休みだから、この辺もすっかり静かなもんで、うちもお客が来ないんじゃ店開けててもしかたがないってんで、最近はゴールデン・ウィークをお休みにしてたんだけど、今年はお爺さんが店に老眼鏡忘れてきたって言うから、わざわざ家から取りにきてねえ、そんときにね、美奈子ちゃんがね、男の人と腕組んで駅の方から歩いてきたんだけど、最初見たときは年格好はうちの息子と同じくらいだからお父さんと一緒なのかなあ、ってあたしも思ったんだけども、様子がね、ほら、ちょっとそういうんじゃないから、わかるでしょ、あたしゃ、シャッター半分上げて、ぼうっと見てたんだけど、向こうは目の前を通り過ぎながら、こっちには気づかないで行っちゃって、ほら、そこの角の飲み屋さん、あそこもコロコロ替わるから名前が覚えらんないんだけど、あそこの前に停めてあった外車に乗って、大学の方へ走っていったんだわ。そりゃお婆さんだから、なんて車かなんてわからないですよ、でも、左にハンドルがついてたから、あれは外車でしょ」


 洋子さんがめくばせした。

 僕は、わかっている、とうなずいてみせた。


 オヤジと外車……〈変な男〉は村田だ。

 あの日記の男だ。


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