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9.虫のように柔らかい腹(4)

     ◆


 僕はぷらぷら近江屋まで歩いていった。

 一階のショーケースに身をかがめて菓子を選んでいると、後頭部に響く割れガラスのような声で、近江屋の婆さんが、もう来てるわよ、と教えてくれた。


「なにを食べよう?」

「男の子はねえ……あんまり和菓子とか好きじゃないでしょう?」


 僕は最中と栗饅頭を選んで階段を登った。

 二階では、僕が生まれる前からそこにあるような、馬鹿でかいクーラーが、唸りながらフルパワーで稼動していた。

 クーラーの前に置かれた観葉植物の葉が、冷風に激しくなびいている。

 しかし、部屋がまるで涼しくないのは、スイッチを入れたばかりだからだろう。


 洋子さんは、真っ赤な顔をしていた。

 暑いからなのか、恥ずかしがっているのか、わからなかった。

 笑顔だったが、それは苦笑という感じがした。


 僕は頼まれていた物を彼女の前に黙って突き出した。


「ありがとね」

 絞められたハツカネズミみたいな声で、彼女は礼を言った。

「見なかったわよね?」


 電話でも訊いたことをたしかめ直す洋子さんの赤い顔を見ると、やはりそれは羞恥心からなのだと気づいた。

 彼女らしくない。

 もちろん、男と性交しているところを恥ずかしげもなく人に晒せるはずはない。

 だが、産婦人科で照れたってしかたがないように、割り切るときはすっぱり割り切る人というのが、僕がずっと洋子さんに抱いていた印象だった。

 こんな場面では、「せっかくだから見ればよかったじゃない」のひとことくらいは言いそうな気がしていた。


 洋子さんは、CDをトートバッグに放り込むと、それだけでデータまで消去できたかのように、いつものどことなく傲慢な顔つきに戻った。


「その後、なにかわかった?」


 なにも、と僕は答えた。

 ちさとのことは、だれにも話さないつもりだった。

 若菜にもきつく口止めしておいた。

 だれかに悟られたらまた、メールで〈パブロフ〉およびその周辺に広まってしまうだろう。

 ちさとを傷つけたくなかった。


「今日、あの子のお母さんが出て来るんでしょ?」

「警察じゃそう聞いたけど」

「〈パブロフ〉の方には寄るのかしら」

「大学には来ないんじゃないか。

 だれかひとり……たぶん洋子さんだろうけど、会うことにはなるかもね。

 お母さんが望めば、警察はきっとそう段取るはずだ」


「なんでひとりだけ?」

「だって、サークルのメンバー全員集めて、『娘と親しくつきあってくださってありがとうございました』と礼を言うような、そんな状況じゃないだろ。

 まだ彼女が死んだって決まったわけじゃないんだ。

 だから、白砂咲子だっけ?

 十三貝さんの母親が、〈パブロフ〉の人間に会いたいとすれば、それは娘の近況を聞きたいってことだよ。

 いちばん親しい人っていったら、洋子さんてことになるだろうから」


「そういうもんか……」

 洋子さんは呟くように言って、顔を窓の方へ背けた。


 近江屋の婆さんがお茶を持って上がってきた。

 彼女は、僕の前に茶碗と急須とポットを置くと、そのまま僕の隣に、すとんと腰を下ろした。

 どうしたのかと見ると、婆さんはひからびた手を僕の腕に置いて、「いつも上生を食べる、あのきれいな子」と言った。


「美奈子のこと?」

 と洋子さんが、婆さんを振り返った。

 両方の眼に「?」が一つずつ浮かんでいる。


「そうそう、美奈子ちゃんよ。あの子、大変なんだって?」

「お婆ちゃん、だれに聞いたの?」

「あー、なんだっけ、あの子は……ちょっと太った……大川とか桶川とか……」

「及川なら、ちょっとじゃなくて、かなり太ってるけどさあ」


「及川さんね、そうそう、そういう名前。

 歳のせいだわあ、人の名前が覚えられなくてやんなっちゃうねえ。

 あの体格のいい子はねえ、会えば必ず挨拶してくれるんだ。

 ちゃんとした子だよ。

 今日はシャッターを開けてるときに、ちょうど前を通ったのよ。

 そんときに教えてくれたのよお、美奈子ちゃんが死んだかもしれないって。殺されたんじゃないかって。

 ちょっと、あんたたち、本当のことなの、それ?」


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