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9.虫のように柔らかい腹(3)

     ◆


 よどみきった二人組を前に、僕は今日一日、いったいどうしたものか、それを考えていた。

 ちさとの元の姓を調べる必要はあるが、気が進まない。

 結果はおそらく想像どおりだろう。

 ちさとの問題はあと回しにするとして、なにから手をつけるか。


 さしあたって、洋子さんを探してCDを渡すのが、いちばん簡単そうだった。

 天井を見上げてため息をついている春樹の向こうずねを、蹴飛ばした。

 なんすかあ? と不機嫌な表情で見返す彼に、僕は洋子さんへ電話をかけるように言った。


「自分でかけりゃ、いいじゃないすか」

「だって、ケータイ持ってないもん」

「いいかげん買ってくださいよ」

「金かかるじゃん。うちは貧乏だからな。そんな贅沢品は許されないよ」

「トモさんちって、本当に貧乏なんすかあ?」


「なんだよ、疑ってんのか。

 おまえ、こう見えても、僕は双子の兄を働かせて、その稼ぎで大学に通わせてもらってんだ。

 ホントなら、こんなとこでぼんやり、おまえらの相手なんかしてられる身分とちがうんだよ」


「威張るようなことじゃないですよ。

 でも、その双子のお兄さんってのが、怪しいんすよねえ。

 実のところ、実在の人物じゃないんじゃありませんか」


 春樹の台詞に、カツが肩をすくめてみせる姿を想像して、僕はくすりと笑った。

 あいつはよほどリアリティのない存在なのだろう。

 日本で三番目くらいにリアリティのない男かもしれない。

 たしかに、本の世界へ半分は行っているようなものだから。

 遠眼鏡を逆さにしてカツを見たら、覗きからくりの押絵の中へ、スーッと溶け込むように入ってしまうかもしれない。


「うちの貧乏のことはいいから、早く洋子さんに電話してくれよ」


 せっつくと、春樹はぶつぶつ言いながらも、尻のポケットから、携帯電話を出して、洋子さんへかけてくれた。

 その間ずっと、堀井は頭を抱えて「地獄だ、地獄だ」と呻いていた。

 アフリカ奥地へ大河を遡行していくと、こんなやつがいるんじゃなかったっけ。

 あるいはカンボジア奥地だったか。


「どう、どう?」

 と洋子さんは、僕が電話に出るなり、訊いてきた。


「授業中?」

「ちがう。これからそっちへ行くところ。

 どうだったの? 例のモノは見つけられた?」

「うん。たぶんそうだろうってのは見つけたよ」

「たぶんじゃ困る」

「そんなこと言われても、中身をたしかめられなかったからね。しかたがないさ」

「――見てないの?」

「見てほしくないでしょ?」

「そりゃ……ね」


 僕は近江屋で会う約束をすると、電話を切って春樹に返した。

 カバンを開けてCDを出した。

 カバンも春樹に渡して、〈パブロフ〉へ持って行くよう頼んだ。

 重い物を持って、炎天下をウロウロしたくなかった。


「いいですけどね」

 春樹は唇を尖らせる。

「ウチらが出るときは、これ、部屋に置いといていいすか」


 どうやら、カバンの番なんかのために、堀井をふらふらひとりにさせるわけにはいかない、と言いたいらしい。

 もちろん、と僕は答えて席を立った。

 そんなに心配なら、手錠で繋いでおけばいい、とはさすがに言わなかった。

 言ったら、本気でやりかねなかったから。


 ちょうど一時間目が終わったところだった。

 廊下を、大勢が右へ左へ移動中だった。

 見知った顔が何人も、同じ方向へ歩いていくのを見つけた。

 そのひとり、クラスでも僕と同じくらい真面目だと言われているやつ――名前は覚えてないが――に呼び止められた。


「トモ、出ないの、ガイダンス?」

「ガイダンス? …………あー! ガイダンス!」


 僕は思い出した。

 クラスメイトの名前じゃなくて――春から始まった三年生対象の就職ガイダンスのこと。

 その第三回が二限目に予定されていた。

 もちろん、僕はこれまでの二回を、真面目に出席している。

 きちんとした就職に向け、活動の第一歩は踏み出していたのだ。


 まったく大したことを忘れていたもんだ。

 十三貝さんのことがなければ、絶対忘れなかった。

 クラスメイトの名前とは、重要度のレベルがちがう。


 カトレアに戻り、春樹の携帯電話を借りて、洋子さんに電話し、約束を遅らせてもいい。

 それが賢明な選択だろう。

 しかし、そうしなかった。

 クラスメイトにあとでノートを見せてもらうことにした。


「おまえの分も資料を貰ってやるよ。若菜ちゃんに渡しておけばいいよね?」


 なんて親切な友だちなんだ!

 今度会うまでに名前を覚えておこう、と心に誓った。


「だけど、あれだよね。トモがこういうのに出ないなんて、スゴイ珍しいよね」


 妙なことに感心して、ヤブニラミ気味の眼で僕を眺めているクラスメイトには、黙って微笑んでみせた。

 就職ガイダンスより大切なことがある、なんて言うだけ無駄だ。

 耳を見つけて乳首が送られてきて――と事件の経緯を説明したところで、なんの意味がある?

 名前も知らないクラスメイトには、なんの関係もない話だ。


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