9.虫のように柔らかい腹(3)
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よどみきった二人組を前に、僕は今日一日、いったいどうしたものか、それを考えていた。
ちさとの元の姓を調べる必要はあるが、気が進まない。
結果はおそらく想像どおりだろう。
ちさとの問題はあと回しにするとして、なにから手をつけるか。
さしあたって、洋子さんを探してCDを渡すのが、いちばん簡単そうだった。
天井を見上げてため息をついている春樹の向こうずねを、蹴飛ばした。
なんすかあ? と不機嫌な表情で見返す彼に、僕は洋子さんへ電話をかけるように言った。
「自分でかけりゃ、いいじゃないすか」
「だって、ケータイ持ってないもん」
「いいかげん買ってくださいよ」
「金かかるじゃん。うちは貧乏だからな。そんな贅沢品は許されないよ」
「トモさんちって、本当に貧乏なんすかあ?」
「なんだよ、疑ってんのか。
おまえ、こう見えても、僕は双子の兄を働かせて、その稼ぎで大学に通わせてもらってんだ。
ホントなら、こんなとこでぼんやり、おまえらの相手なんかしてられる身分とちがうんだよ」
「威張るようなことじゃないですよ。
でも、その双子のお兄さんってのが、怪しいんすよねえ。
実のところ、実在の人物じゃないんじゃありませんか」
春樹の台詞に、カツが肩をすくめてみせる姿を想像して、僕はくすりと笑った。
あいつはよほどリアリティのない存在なのだろう。
日本で三番目くらいにリアリティのない男かもしれない。
たしかに、本の世界へ半分は行っているようなものだから。
遠眼鏡を逆さにしてカツを見たら、覗きからくりの押絵の中へ、スーッと溶け込むように入ってしまうかもしれない。
「うちの貧乏のことはいいから、早く洋子さんに電話してくれよ」
せっつくと、春樹はぶつぶつ言いながらも、尻のポケットから、携帯電話を出して、洋子さんへかけてくれた。
その間ずっと、堀井は頭を抱えて「地獄だ、地獄だ」と呻いていた。
アフリカ奥地へ大河を遡行していくと、こんなやつがいるんじゃなかったっけ。
あるいはカンボジア奥地だったか。
「どう、どう?」
と洋子さんは、僕が電話に出るなり、訊いてきた。
「授業中?」
「ちがう。これからそっちへ行くところ。
どうだったの? 例のモノは見つけられた?」
「うん。たぶんそうだろうってのは見つけたよ」
「たぶんじゃ困る」
「そんなこと言われても、中身をたしかめられなかったからね。しかたがないさ」
「――見てないの?」
「見てほしくないでしょ?」
「そりゃ……ね」
僕は近江屋で会う約束をすると、電話を切って春樹に返した。
カバンを開けてCDを出した。
カバンも春樹に渡して、〈パブロフ〉へ持って行くよう頼んだ。
重い物を持って、炎天下をウロウロしたくなかった。
「いいですけどね」
春樹は唇を尖らせる。
「ウチらが出るときは、これ、部屋に置いといていいすか」
どうやら、カバンの番なんかのために、堀井をふらふらひとりにさせるわけにはいかない、と言いたいらしい。
もちろん、と僕は答えて席を立った。
そんなに心配なら、手錠で繋いでおけばいい、とはさすがに言わなかった。
言ったら、本気でやりかねなかったから。
ちょうど一時間目が終わったところだった。
廊下を、大勢が右へ左へ移動中だった。
見知った顔が何人も、同じ方向へ歩いていくのを見つけた。
そのひとり、クラスでも僕と同じくらい真面目だと言われているやつ――名前は覚えてないが――に呼び止められた。
「トモ、出ないの、ガイダンス?」
「ガイダンス? …………あー! ガイダンス!」
僕は思い出した。
クラスメイトの名前じゃなくて――春から始まった三年生対象の就職ガイダンスのこと。
その第三回が二限目に予定されていた。
もちろん、僕はこれまでの二回を、真面目に出席している。
きちんとした就職に向け、活動の第一歩は踏み出していたのだ。
まったく大したことを忘れていたもんだ。
十三貝さんのことがなければ、絶対忘れなかった。
クラスメイトの名前とは、重要度のレベルがちがう。
カトレアに戻り、春樹の携帯電話を借りて、洋子さんに電話し、約束を遅らせてもいい。
それが賢明な選択だろう。
しかし、そうしなかった。
クラスメイトにあとでノートを見せてもらうことにした。
「おまえの分も資料を貰ってやるよ。若菜ちゃんに渡しておけばいいよね?」
なんて親切な友だちなんだ!
今度会うまでに名前を覚えておこう、と心に誓った。
「だけど、あれだよね。トモがこういうのに出ないなんて、スゴイ珍しいよね」
妙なことに感心して、ヤブニラミ気味の眼で僕を眺めているクラスメイトには、黙って微笑んでみせた。
就職ガイダンスより大切なことがある、なんて言うだけ無駄だ。
耳を見つけて乳首が送られてきて――と事件の経緯を説明したところで、なんの意味がある?
名前も知らないクラスメイトには、なんの関係もない話だ。




