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9.虫のように柔らかい腹(2)

 カトレアへ行ってみた。

〈パブロフ〉名目代表と、その腰巾着クンがいるだろう、という期待。

 そして、期待通りに、二人を隅の席に見つけた。


 二人はよどんでいた。

 堀井は、墜落寸前の旅客機の乗客のように、頭を抱えて両足の間に突っ込んでいた。

 春樹は頬杖をついて、ぼんやりカウンターの方を眺めていた。

 鶴を折ってさえいない。

 近寄ると彼らからは酒とすえた汗が匂った。


「堀井さんたら喰われちゃったんですよ」と春樹が言った。

「言うなって」

 足の間から堀井が呻いた。


「どうせ向こうがペラペラ喋るに決まってんでしょ。

 すぐ知れ渡っちゃうんだから」

「喰われたってどういうことよ?」


「昨日飲みに行ったんです。

 えっと、古屋先輩と、ちさとちゃんと、ウマノスケさんと、及川さんと。

 最初駅前の〈侘助〉に行って、二軒目は〈きくや〉でした。

 気がついたら、上りの終電にはもう間に合わない時間で、みんなカラオケに流れて、そこで朝までつぶそうってことになったんですけど――」


「そこから話さなきゃいけないのか」

「そういうわけじゃないスけど……」

「じゃあ、肝心なことだけ話せよ」


「トモさん、今日は恐いっスねえ。怒ってることでもあるんですか」

「怒ってるよ。いろいろ怒ってる。それとも僕は怒っちゃいけないのか」

「いけないですよ。

 トモさんは浅沼さんの次に温厚な人だってことになってんですから」


 二番目とは馬鹿にされている。

 しかし、ミロクさん相手に、温厚さ勝負でかなうはずがない。

 本気で競争するなら、死人並みの無感覚さを身につけなくては。

 僕は手を振り、先を続けるよう、春樹を促した。


「堀井さんたら目が醒めたら、ラブホにいたんだそうですよ。

 隣には及川さんが、すっぽんぽんで、鼾かいてたんですって」


「ふーん、それで落ち込んでんだ。

 気にすることないんじゃないの?

 たぶん、堀井はなにもしてないぜ。

 酔ってたんだろ?

 及川にひっかけられてんのさ。記憶がないからって、おまえ――」


 堀井が、オアズケを命じられたまま忘れられた犬のように、うなった。


「なんだよ? 覚えてないんだろ? だったら――」


 うなり声。

 飼い主だって噛み殺しかねない、凶暴さがあった。


「まさか、覚えてんの?

 ……ほんとにやっちゃったわけ?

 ……おまえ……おいおい、カンベンしてくれよ」

「……死にたい」

「うーん。一度死んだ方がいいっスよ、マジで。

 ねえ、トモさん?」


 いつになく手厳しい春樹にうなずいてみせたものの、笑うに笑えない話だった。

 堀井の酒癖の悪さは、一年の頃から知られていた。

 暴れるわけではないが、酔うと女に見境がなくなる。

 それも多分に普通でない。


 僕は、七十過ぎのお婆さんにしきりにキスしようとしている堀井を見たことがある。

 もちろん、彼は本気だった。


 酒で価値観が反転するとか、深層に押し込められていた嗜好が、意識の表面近くまで上がってくるとか、理屈はなんとでもつけられる。

 堀井本人によれば、酒を飲むと、女がみんな同じに見えてくるのだそうだ。

 老女も幼女も、美人もブスも、デブもガリガリも、聖女も悪女も、巨乳も貧乳も、どんな差異もそこにはなくなって、ただ〈女〉という存在になるという。


 あんなに怖がっていた及川範子という個別性も、血中アルコール濃度の上昇とともに、消滅してしまったわけだ。

 その体質を、感覚の鈍磨ということばでかたづけてしまうのは、しょせん他人事だからだが、やはり一種の病気なんじゃないか。


「いくら及川だって、そんなこと、ぺらぺら喋って回ったりしないって。

 向こうも、飲んだ勢いってとこだったんじゃないの。

 なかったことになっちゃうさ、たぶん」

 ほかに慰めようもなくて、そんなことしか言えなかった。


 堀井がなにか答えた。


「ん? なに? 聞こえなかった」

「……処女だった」


 処女だった?

 なんだ、それ?

 及川も及川だ。なんでよりによって堀井なんかと――。


「最低っすよ」と春樹が吐き捨てた。


 今日という日が最低なのは、僕に限った話ではなかったらしい。


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