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9.虫のように柔らかい腹(1)

 だれにだって、自分であることに嫌気のさす日はあるだろう。

 七月六日が僕にとってはそんな一日だった。


 貧乏人の小倅であることにうんざりし、双子の弟であることに腹を立て、三流私大の学生であることに鬱勃とし、身体に染みついたカレーの匂いに辟易していたが、そのいずれも直接の原因ではなかった。


 いろんなことが少しずつ溜まって、僕という器の容量を超えてしまったのだ。

 表面張力でギリギリこぼれずにいたところへ、最後の一滴が落ちて、一気に溢れだしてしまった。

 最後の一滴になったのはちさとだった。


 彼女が以前名乗っていた姓は、寺島なのだろうか。

 そして、十三貝さんの耳を切ったのは、彼女なのか。

 僕はたしかめなければいけなかったが、いったいどんなふうにやればいいのかわからなかった。

 カツに相談したら、直に訊きゃいいじゃん、というそっけない返事。

 僕に腹を立てているようだった。


 僕の童貞喪失話に怒っていたのか。

 あるいは、カツもカツ自身であることに耐えられなくなっていたのか。

 もっとも、カツの場合、それはたまにやってくる一日ではなく、ほぼ常態だったわけだが。


 本やビデオに逃げ込むカツを、だれも止められない。

 もちろん、カツ本人にさえどうにもならない。

 だから、あのぞんざいな返事は、自分さえ救えないのに、僕の憂鬱なんて知ったことか、ということだったのかもしれない。


 しかし、ちさとのことにどう対処すべきかという、僕の悩みはその後、なにもしないまま解決してしまった。

 志賀直哉の小説に書かれているように、頭ん中でグチャグチャ考えていることは、たいていの場合、現実にさらりと乗り越えられてしまうのだ。

 もっとも、それで〈問題なし〉の状況になるとは限らない。

 さらに混迷の度合いを強めることもある。

 七月六日の僕の場合、目覚めたときの最低最悪さでさえ、一日の終わりには、まだ生易しいもんだった、と嘆息せざるをえなかったのだ。


 ――ともかく、六日の朝は寝不足で始まった。

 前夜は延々と続いた母の説教で終わり、眠っている間も、覚えてはいないがひどく疲れる夢を見た。

 全身汗まみれで目覚めたが、それは暑さのせいばかりではなかった。

 僕は朝からぐったりしていた。


     ◆


 カツは夜通し本を読んでいたらしい。

 僕が起きていくと、開いていた本をテーブルに伏せ、充血した眼を僕に向けた。

 伏せられた本は柳田の全集だった。

 何巻目かはわからなかった。


「しっかりしろよ」とカツは言った。

「なんだ?」


「今日、あの部屋を警察が調べるんだろう?

 だから、しっかりしとけよ。

 おまえの期待は裏切られるだろうから」

「朝から最低なこと言うなよ」


 すでに両親は働きに出ていた。

 僕は冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。

 朝食はそれだけ。まるで食欲がわかなかった。


 出がけにカツから本を渡された。

 ジャック・ラカン。

 大学の図書館に返してくれというのだった。

 双子の兄のパシリをつとめるのも、いいかげんうんざりだったが、学費のことがあるからしかたがない。

 僕は無言で、本をカバンに入れた。

 ついでに、ウマノスケと洋子さんの生殖行動が記録されているはずのCDを忘れていないこともたしかめた。


 校門にたどり着くまでは、真面目に講義へ出席するつもりでいた。

 門をくぐった途端、気が変わった。

 一時間目の講義がある棟とは、見当ちがいの方向へ歩き出した。

 それはサークル棟の方でもなかった。

 学生ホールのドアを開けようとして、中にちさとらしき人間の姿が見えたのでやめた。

 彼女と顔を合わす勇気はまだなかった。


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