8.胸に転がる異物(15)
日記は、昨日のまま、机にあった。
いろいろな物が、いろいろに放り出されている、机の上を眺めてカツが、ぼそり、と言った。
「パソコンはないんだな」
「遊びたかったの? パソコン使いたければ、うちに来ればいいじゃない」
「トモの話で、パソコンとか使い倒しそうな女を、想像してたんだ」
「うんにゃ」と僕は首を振った。
「けっこう使える人なんだけどさ。
本質的に、ああいうもん嫌いなんだって。
どうせ使うとしても書き物ぐらいだろうし、それなら自分の手で書かないと、自分本来の生体的リズムが文章に出ないんだと」
「詭弁だわ」
「おまえ、詭弁って漢字で書けるかよ」とカツが嘲う。
エエーッ、と二歩退いて、若菜はぐっと踏み堪え、そんなのケータイで変換すれば一発だと言い返した。
そういうことなのかな。十三貝さんがコンピュータを嫌うのは、そういう他力本願なところかもしれない。
「わからないじゃねえな」
「でっかいペン胝があるんだ。
それのせいで、左の中指に指環もはめられないって、嫌がってんだか自慢なんだかわかんないことを言ってたよ」
「ふうん……」
カツの興味はすでに、別なところに移っていた。
本棚の前に、マネキン人形の真似みたいに突っ立っていた。
これだから人生の半分、本を読んでいるやつは困る。
「あ、『セリーヌの作品』が全部揃ってる」
「やめろよ。絶対にそこから持ち出すなよ」
僕は釘を刺した。カツの考えていることなんて、だいたいわかる。
「いいじゃん。明日んなったら、この部屋、警察が入んだろ? だったら今日しかチャンスねえじゃん」
「あたしはこっちの今市子にしようかなあ……」
若菜まで調子に乗っていた。
本棚の前にしゃがみ込んでマンガをペラペラやっている。
「警察にはバレなくても、十三貝さんが戻ってきたらまるわかりだろ。
勘弁してくれよ」
「どうせ戻ってこないって」
なんでもないことのように、そう言ったカツの後頭部を、僕はキッチン用ゴム手袋(青色)の手で、力いっぱい叩いた。
いかにも、カラッポです、といった乾いた音がした。
若菜がケタケタ笑った。
「いってえなあ。なにすんだよ」
カツの文句は無視して、僕は机の前に戻ると、日記をぱらぱら読んだ。
今夜ここに来た目的の半分はこれだった。
しかし、日記には、役に立ちそうなことは書かれていなかった。
大人っぽいしっかりした字で、就職活動の記録が綴られているだけだ。
村田という男について詳しい記述を期待したのだが、「下心見え見えのオヤジが飯を奢ってくれる」という以上の情報は得られなかった。
二人はいつ、どこで知り合ったのだろう?
謎が明らかにならないためだけじゃない。
ゴム手袋でページがめくりにくいのももどかしい。なにもかも苛立たしかった。
カツと若菜は並んで、十三貝さんのベッドを見下ろしていた。
肘で小突き合い、こそこそ喋っては、くすくす笑っていた。
――ああ、そうさ、僕はそこで精液を回収されたんだよ。
怒鳴りつけるのも面倒臭く、僕は無視することにした。
結局、十三貝さんの部屋には、十分といなかった。
非常階段を使って一階に降りると、さっさと建物を出た。
駅までほとんど小走りに歩いた。
若菜は他人の家への不法侵入に興奮していて、やたらと甲高い声でカツにからんでいた。
カツの方は「うん」とか「ああ」とか、生返事を返すばかりで、しきりに頬を掻いていた。
街灯の光がにじんでいた。
夜風はアマガエルのような生臭い匂いがした。
胸の中に十三貝さんの記憶がゴロゴロしていた。
なんとはなしに――やっぱり、死んでいるのかな、と思った。
一瞬よぎったあきらめは甘酸っぱく物悲しく…………快感だった。




