1.袋の中の耳(11)
この蒸し暑さ。
そして、足の痛みのせいもあるのだろう。
若菜はすっかりむくれて、ぺったり座り込んでしまった。
縹刑事は呆れたように見下ろしていた。
人のことは最低の馬鹿とか言うくせに、若菜本人には堪え性のないわがまま娘だという自覚がなかった。
村上刑事は、縹刑事と若菜のやり取りを聞いているのかいないのか、ラックの前に立って、しきりに左手をラックの棚に出し入れしていた。
僕の二段目。
いちばん上の棚。
僕の棚。
一つ下の棚。
また、僕の棚。
もう一つ下の棚。
僕が見ていることに気づくと、にやっ、と笑った。
「どうなんだろうね。
君の棚に初めから入れるつもりだったのかな。
ただなんとなく君の棚が入れやすい高さだっただけなのかもしれない」
「なにもここで決める必要はない」
縹刑事は振り返りもせずに言った。
「調べればおのずと答えは出る。
耳は水岡さんに向けたものだったのかもしれないし、このサークル全体に向けられたものかもしれない。
今はまだどの可能性もあるということだ」
縹刑事はへたり込んでいる若菜に冷たい眼を向けて、これまでよりも柔らかな声で問いかけた。
「階段から突き落とされたとおっしゃいましたね。
そのことを詳しく話していただきたいんですが、とりあえず中へ入りませんか。
中には椅子もあるでしょう」
若菜は縹刑事が差し出した手を無視して、僕へ手を延ばした。
僕はため息をつきつつ、彼女の右腕を掴んで立ち上がらせた。
村上刑事は〈パブロフの猿〉という扉のプレートを眺めて首をひねった。
「なんで猿なの?」
「初めは狼だったらしいですよ」
「気がついたら猿に化けてたっての?」
「そうらしいですよ。遠目に見たら似てるでしょう、猿と狼って字は。まあ、大昔のことだから、本当のことはわかりませんけど」
「同じケモノへんにはちがいないけどねえ……」
サークル室は、長机一本とベンチを二つ入れたら、ほかには人の立つ余地さえない、小さな部屋だった。
部屋と言うのもおこがましいかもしれない。
机を挟んで片側に三人ずつ座るともうだれも入れない。
定員六名の極小空間。
僕は若菜を先に入れて、ベンチに足を乗せる恰好で座らせた。
その隣に僕も腰掛ける。
刑事二人は机とベンチの隙間へ身体をねじって押し込んだ。
居心地悪そうだった。
縹刑事は、若菜が階段から突き落とされた件について、質問を始めた。
彼女の話をよく聞くと、必ずしも突き落とされたわけではないようだった。
踊り場から一歩踏み出そうとしていた若菜の肩へ、チビが突き当たってきたのだという。
黒いシャツで黒い野球帽をかぶったそいつは謝りもせずに走り去ったらしい。
慌てていたやつが、たまたま彼女の身体にぶつかっただけとも考えられた。
「あ、そうだ。
トモ、ウマノスケ君にお礼言っといて。
ちょうど通りかかったから、医務室まで連れてってもらった」
「そのウマノスケさんはあなたを突き落とした人を見たんですか」
横から縹刑事が訊いてきた。
若菜は首を振った。
ウマノスケは「チビが逃げた」のとは反対の方から、一分ほどあとに歩いてきたのだと彼女は説明した。
「あたしを殺すつもりだったのよ!」
なにごとも大袈裟に語るいつもの癖だ。
僕は若菜の話を真剣に受け取らないことにした。
その話よりも、僕は机に置かれていた紙の束の方が気にかかった。




