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8.胸に転がる異物(13)

「ちさとの元の苗字は?」


 若菜は首を振った。

 ただでさえ色白の顔からは、すっかり血の気が引いて、古いビスクドールの、薄気味悪いような白に変わっていた。


「電話して訊いてみてくれよ」

「ヤだよ。そんなこと訊けないよ。トモが訊いてよ。ケータイ貸してあげるから」


「僕こそ嫌だ。変だろ、そんなの」


「じゃ、おれ、電話しようか」

 カツがへらへら笑っている。

「あなたに片想いしている水岡智徳の、実在する双子の兄ですが、ご両親が離婚される以前の、あなたの苗字をお教え願えますかって。どうよ?」


 カツを睨みつける。

 冗談にするなよ、と言っても笑っているだけだ。


「だれか知ってるやつはいないかな?」

「あたしより親しくしている人っていうこと?

 そんな人いない……ああ、ひとりいたか」

「だれさ?」


 高畑朝美、と若菜は言った。

 電話をかけてみなよ、とマスターがせっつく。

 僕はアドレス帳を持っていなかった。

 若菜が、知ってるかも、と携帯電話を出した。

 メモリには、朝美ちゃんの電話番号が登録されていた。

 かけたことがあるのかと訊くと、若菜は首を振った。

 かかってきたこともない、と言う。

 なにかのときに電話番号を交換したらしい。

「ま、礼儀みたいなもんじゃない?」

 と若菜は鼻に皺を寄せて笑った。

「でも、こうして役に立つわけだし――」


 僕は呼出音を数えた。

 ほかの三人は妙に真剣な顔で、僕が喋り出すのを待っている。

 なんだ、こいつら、と思う。

 頭の中を、もぞもぞと青虫が這い回っている。

 僕はなにかに気づきかけていた。


「――はい?」朝美ちゃんのしゃがれ声。

「もしもし、トモだけど――」


 その瞬間、青虫は餌に辿り着いた。

 僕は疑いもなく理解した。

 ――なぜ十三貝美奈子は、あの日、高畑朝美に電話したのか、ということを。


     ◆


 朝美ちゃんも、ちさとの元の苗字を知らなかった。

 ちさとは高校二年の途中で、朝美ちゃんの学校へ編入してきたのだという。

 そのときはすでに石垣姓だった、と朝美ちゃんは言った。

 どうしてそんなこと知りたいのか、と訊かれたが、愛しているから彼女のことはなんでも知りたいんだ、とごまかした。


 困ったことに、朝美ちゃんは、それを冗談と受け取らなかった。

「そういう気持ちもわからないわけではないけれど、そんなこと気にしてたら、山口みたいにストーカーになってしまうよ」

 と諭すように叱られた。


「ストーカー。トモ、ストーカー」

 と若菜が車輌中に響き渡る声で笑った。

 彼女はゴアからずっと、それで笑っていた。

「ちさとに注意してやんなきゃ。トモはストーカーだって」

「ばか」


 僕は、車窓に並んで映っている、自分とカツの顔を見比べながら、考えていた。

 若菜は、朝美ちゃんも、ちさとの以前の苗字を知らなかったことで、幾分か気が楽になったらしい。

 実際は、なにも好転してはいない。

 むしろ、高校編入と事件のタイミングなど、ちさとへの疑惑はより深まってさえいるのだが、若菜は気にならないらしい。

「朝三暮四」の猿みたいなもんだ。

 目先のことしか考えていない。

 ちさとにとって都合が悪いのは、編入のタイミングばかりではなかった。


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