8.胸に転がる異物(9)
不安。身体は俊敏に反応する。
みぞおちを硬いもので押さえつけられているようだ。
舌の付け根に、酸っぱい唾液が湧き出す。
自分が生きているということを、不意に納得する。
奇妙なものだ。
危うさの中でしか、自己存在は見つけ出せないらしい。
カツは手提げ袋を持って立ち上がった。
僕の横を通り過ぎざま、右の耳にだけ教えるかのように、囁いた。
「工場をクビになった」
僕はカツの袋を提げた腕を掴んだ。
「なにをやらかした? いつの話なんだ?」
「先おととい言い渡された。べつになにかしたわけじゃねえぜ」
「なにもしてないのになんでクビになるんだ?
……あー、つまり……なにもしてないからか」
「なに言ってんだよ、トモ。
そんな難しい話じゃねえよ。
簡単に言えばリストラだ、リストラ」
カツは、僕の手を振りほどくと、さっさと歩き始めた。
「うちの工場、かなり危ないらしい。
いつ沈んでもおかしくない船だそうだ。社長に直接、そう言われた」
社長といっても、社員二十名に混じって、油まみれになって働いている、ビヤ樽みたいな、親父だった。
うちの父よりも十ばかり、歳をくっている。
僕は二度ばかり会ったことがある。
双子の兄を働かせて、自分はのうのうと大学で遊んでいる、ということで、僕にはあまり良い感情を持っていないようだった。
しかし、そんなカツに対して同情的な人間が、カツをクビにするとはどういうことか。
学費の供給源を断つという、僕への回りくどい嫌がらせかもしれない、と考えていると、カツが階段の手前で振り返って「救命ボートには女子供から乗るもんだってさ」と言った。
「どういうことだよ?」
「おれなんか、まだ子どもだってことだろ。
ほかの社員はもう、結構、歳だからな、今職を失うと、次の仕事はそう簡単には見つけられない。
おれは若いから、まだ別の道を探すこともできるってさ」
「工場、つぶれるのか」
「たぶん、な。
どうやら、先に逃げろってことらしい。
いろいろ聞いたところによると、古株の人たちが、社長に進言したようだね、おれを辞めさせるように」
「嫌われてるだけなんじゃないの」
ふざけてみた。僕が真剣になっても、カツの負担を増すだけだ。
「それならいいんだけどよ」
カツは階段を降りていく。
「今辞めるのは、仲間を見捨てるみてえでなんか嫌だ」
「辞めたんじゃなくて、クビになったんだろ」
「まあ、おまえは心配しなくていい。大学の授業料はおれが絶対なんとかするから」
「ほんとにね。腎臓でも、肝臓でも売って、僕の学費を作ってくれよな」
僕らは〈城〉を出ると、ちんたら歩いて、ゴアに向かった。
まだ陽は落ちそうにない。
今夜も一晩中暑いだろう。
◆
顔を出した途端、ばーか、とマスターに言われた。
やはり、母から今朝の件で電話があったらしい。
眼が笑っているから、本気で怒っているわけではなさそうだった。
時間が中途半端だからだろう、店に客の姿はなかった。
しかし、頭の痛いことに若菜がいた。
今夜の段取りを打ち合わせるつもりでいたのだが、彼女はきっと、あたしも行く、と言い出すにちがいない。
母からの電話を、吉田クンは上手くあしらってくれていた。
ナカイももう落ち着いているだろう、とマスターは言った。
彼はいつも、母を旧姓で呼ぶ。
「ありがとう」と僕は言った。




