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8.胸に転がる異物(7)

 一ヶ月後か、二ヶ月後か、とにかくすでに二学期の始まっていたある日。

 カツと二人で学校から帰ると、僕らを客が待っていた。

 会ったこともない老人だった。

 白い髪をべったりと、薄緑のポマードで撫で付けていた。四角い頭の形がはっきりとわかった。

 白人のような彫の深い顔立ちをしていたが、穏健そうな微笑を頬に浮かべて、応接間のソファで、僕らを待っていた。

 とまどった表情の母が出した紅茶を、熱さなど感じないような顔で、飲んでいた。


 その老人は、〈鬼婆あ〉の使いだ、と自分を紹介した。

 もちろん〈鬼婆あ〉なんて言ったわけじゃない。

 このとき初めて〈鬼婆あ〉の名前を知った。

 彼女は入院中だと老人は教えてくれた。

 彼女は生きていたのだ――僕は安心と同時に、物足りなさを覚えた。

 じきに退院できるはずだが、もうあの建物には戻らないだろう、と言った。

 危険だから君たちも入らないように――それを言うために、老人は僕らを訪ねてきたようだった。


 なぜ僕らの家がわかったのか、という不思議に気づいたのは、老人が帰ってしまったあとだった。

 母は「今どき泉屋なんて珍しいわね。なつかしいわあ」と、老人が持ってきたクッキーの缶から、テープを剥がしていた。


〈鬼婆あ〉は老人が言ったとおり、〈城〉に戻らなかった。

 僕らがそれを知っているのは、老人の「入らないように」という言いつけを守らなかったからだ。

 それどころか、幽霊の心配がなくなったその日のうちに、僕らは〈城〉に戻っていた。


 以来、〈城〉は、僕とカツの隠れ家になっている。

 ときどき、金のないアベックや、廃虚好きの学生なんかがやってくるが、恒常的に利用しているのは、僕らだけだ。

 一時期浮浪者が住み着いたこともあったが、十日ばかりでいなくなってしまった。

 ほかの連中が使うのは大概、一階部分だけで、二階に上がれば、使用済みのコンドームや、シンナー臭い空き缶なんかも、落ちていない。


 いつの間にか、〈鬼婆あ〉のことも忘れてしまっていた。

 高校に入って「コンビニ婆あのウインナ巻き」の話を聞いたとき、僕は驚いてしまった。

 それはいわゆる都市伝説のひとつだったが、そこに彼女がいたのだ。

 しかし、都市伝説の中こそ、彼女の棲み処にふさわしかった。


「ウインナ巻き」の話は、だいたいこんなふうだ。

 友だちのお兄さんが(あるいはお兄さんの友だちが)、コンビニエンスストアで深夜勤務のアルバイトしていたときのこと。

 客のいない店に、老女がひとり、ふらっと入ってくる。

 ぼさぼさ髪の、痩せさらばえた老女は、レジにやってきて、おでんを注文する。

 カップを持って、トングを握った友だちのお兄さん(あるいはお兄さんの友だち)は、なににしますか、と訊ねる。


「ウインナ巻きをくださいな」


 しわがれ声。

 お兄さん(あるいは友だち)は、トングでウインナ巻を挟む。

 老女は、ちがう、と言う。


「それじゃなくてもっと下の」

「これですか」

「それもちがう。その大根の下になっているのを」


 うるさい婆さんだと腹を立てながら、兄(あるいは友)は、大根の下に隠れていたウインナ巻きを、つゆから引き上げる。

 おかしい。

 どこか変だ。

 よく見ると、そのウインナには、爪がついている。


「やっと見つかったわ。ずっと探していたのよ」


 手を打って喜ぶ老女。その手には指が一本欠けている。


 カツは「コンビニ婆あのウインナ巻き」の話に、大笑いした。

 しかし、それから数年後に、彼自身が指を失うことを考えれば、あの都市伝説は、悪い予徴だったとも言えるだろう。

 もしくは「コンビニ婆あのたたり」か。


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