8.胸に転がる異物(6)
とうとう僕はポテトチップスをもらえなかった。
カツは血を吐いて昏倒することはなかったが、夕食を食べきれずに残して、母に叱られた。
ずっとあとになって気づいたのだが、〈鬼婆あ〉がした「お友だち」の話は『偉大なるギャッツビー』に酷似していた。
だから嘘だとかそういうことではない。
たしかに虚構や誇張も混じっていただろう。
しかし、話の本質は正しかったはずだ。
〈城〉という廃虚が証拠になる。
常軌を逸した夢想にでも突き動かされなければ、人はあんな風変わりな建物を造ろうとはしないだろう。
その後、僕らは三度か四度、〈城〉へ〈鬼婆あ〉を訪ねた。
行くたびに「お友だち」の話を聞かされた。
内容はほとんど覚えていない。面白い話ではなかった。
行けば貰えるポテトチップスやポップコーン、それが僕らの目的だった。
卑しい双子。
〈鬼婆あ〉が気づいていたかどうかはわからない。
いくら大人だといっても、彼女は必ずひどく酩酊していた。
立ち上がろうとして転び、転びながら部屋の隅へ行って嘔吐し、這いずってソファに戻ると、口中を洗うように酒を飲んだ。
そして「お友だち」の話。
退屈な時間だったが、ポテトチップスの魅力には抗えなかった。
僕らは〈城〉を二人だけの秘密にした。
スナック菓子付きの隠れ家――十歳の子どもには最大級の幸福だ。
しかし、幸福は長く続かなかった。
その日も、僕らは自転車を〈城〉へ続く坂道の下に置いて、早足にポテトチップスの袋に向かって、登っていた。
しばらく雨が続いたので、〈城〉へ行くのは十日ぶりくらいだった。
道の半分ばかり登ったところで、カツが足を止めた。
ピーポーが聞こえる、と言った。
音はだんだん大きくなった。救急車は坂を降りてくるようだった。
しかし、坂の上には〈城〉しかないのだ。
そして、〈城〉には〈鬼婆あ〉しかいない。
やがて、呆然と立ち尽くす僕らの前を、救急車が通り過ぎた。
鋪装されていない道を、大きく車体を揺らしながら、ゆっくりと降りていった。
その後ろに、黒塗りのベンツがついていた。
ブロンズガラスで、中を見ることはできなかった。
二台の車が見えなくなるまで、僕らはそこに突っ立ったままだった。
それから突然なにかが頭の中で弾けて、僕は走り出した。
カツも一緒に坂を駆け登った。
〈城〉へ着くと、競走するように〈鬼婆あ〉の部屋を目指した。
僕が一歩早く部屋に飛び込んだ。
ソファは空だった。
喉がひりひりして、脇腹がズキズキした。
部屋に〈鬼婆あ〉の姿はなかった。
床のところどころに赤黒いものがあった。
そのうちのひとつはまだ乾いていなかった。血溜りだった。
部屋は、アルコールと、吐瀉物と、生ゴミの、匂いがした。
胃がでんぐり返りそうだった。
結果はわかっているのに、僕らは〈城〉中を探し回った。
どこにも〈鬼婆あ〉はいなかった。
〈鬼婆あ〉の部屋に戻った。
コンビニの袋が残っていた。
それには、まるで僕らのために用意してあったかのように、ポテトチップスが二袋だけ入っていた。
もう帰って来ない、とカツは言った。
僕にもわかっていた。
だから、ポテトチップスを貰って帰っても、だれにもわからない。
しかし、僕らは手を出せなかった。
スナック菓子付き隠れ家は、ただの隠れ家になってしまった。
それだって十分に魅力的だったが、僕らは〈城〉から遠ざかった。
正直なところ、〈鬼婆あ〉の幽霊が恐かったのだ。
彼女は死んだものと、すっかり決めつけていた。
床の夥しい血は、そう簡単に忘れられるものじゃなかった。
友だちのいなかった僕らは知らなかったが、どこからかふらっとコンビニに現れ、酒とスナック菓子と弁当を買って、いずこにか消える〈鬼婆あ〉のことは、謎の「コンビニ婆あ」として、学校ではつとに有名だったらしい。
夏休みの始まる頃には、僕らにも何人か友だちができ、そのひとりが教えてくれた。




