8.胸に転がる異物(4)
◆
もしも、あのとき逃げ出していたら――
僕の人生が大きく変わっていたなんてことはないだろう。
しかし、二十歳の今も〈城〉を訪ねるようなことはなかったはずだ。
〈鬼婆あ〉は、おいで、と言った。
恐怖で動けない僕らに、なにも取って喰おうってんじゃないんだから、と部屋へ戻りながら言った。
彼女の手には、ウイスキーのボトルがぶら下がっていた。
僕らは魂を掴まれてしまったように、〈鬼婆あ〉のあとをついて行った。
十畳くらいの薄暗い部屋の中央に、大きな深緑色のソファが、置かれていた。ほかに家具はなかった。
〈鬼婆あ〉はそこに寝そべった。
匂いの元は、この部屋だった。
ソファの周りに、ゴミが散乱していた。
まだ中身の残っているコンビニ弁当や、酒の空き瓶が無造作に捨てられていた。
数カ所に、すでに干涸びてはいたものの、吐瀉物とわかる塊もあった。
〈鬼婆あ〉は寝そべったまま、手近にあるコンビニの袋へ手を伸ばすと、そこからポテトチップスの袋を出して、僕らに放った。
カツの胸に当たり、足下へ落ちた。
カツは棒立ちで拾い上げるそぶりもなかった。
「それ、食べな。突っ立ってないで、そこらへんに座ったら?」
――知らない人から食べ物を貰っちゃいけません。
――たとえ貰ってもすぐに食べちゃいけません。
――食べていいか家の人に聞いてみること。
――毒が入っているかもしれないですから。
――あら、本当よ。
――先生が子どもの頃、青酸コーラ事件というのがあったのね……。
前の学校の担任が言っていた。
危ない。
きっとポテトチップスには青酸が入っているんだ。
〈鬼婆あ〉は僕らを殺して……どうするんだ? ……食べるのかあ?………「子どもの肉は柔らかいねえ、イッヒヒヒ」……これじゃあおとぎ話だな……ガサッ……このお城のどこかに隠しておくのかな、秘密を知った人間はみんな殺して地下室に死体は棄ててるんだろうだからちかしつにはころされたひとのほねがいっぱいあってぼくらもそこにほうりこまれるんだ……バリッ……でもひみつってなんだよ? ……パリパリ……ん? ……バリバリ……この音はなに?
見ると、カツは床にぺったり座り、袋を抱えてポテトチップスを頬張っていた。
「トモ、いらないんだろ」
双子の宿命か、あるいは母がケチなのか、当時の僕らには、ひとりでひと袋のスナック菓子を食べる習慣がなかった。
必ず兄弟で半分ずつ。
だから、ひと袋のポテトチップスを独り占めできる誘惑に、カツは勝てなかったのだろう。
子どもだなあ、と十歳の僕。
が、実際のところ、カツだって、僕と似たようなことは考えたのかもしれない。
考えたうえで、それでもやっぱり、と袋を開けたのじゃないか――と二十歳の僕。
僕はカツの隣に腰を下ろした。
毒の効きが遅いだけかもしれない、とポテトチップスには手を出さなかった。
「あんたたち双子なの?」
「そう」とポテトチップスを頬張ったままのカツが答えた。
悔しいことに、双子の兄はまだ苦しがるそぶりを見せなかった。
喉を掻きむしったり、口から泡を拭いたり、白眼を剥いたり――
そんなことは一切なかった。
「カストルとポルックスね」
これはあとから補完した記憶だ。
本当は「ナイルズとホランドね」と言ったのかもしれない。
いずれにせよ、〈鬼婆あ〉は僕らの知らない外国人の名前を出して、ひとりでくすくす笑った。
なにがおかしいのかわからなかった。




