1.袋の中の耳(10)
「どこにいるんだよ?」
――ここ。
そのことばはステレオで聞こえた。
顔を上げると、若菜はドアを開けて学生ホールに入ってくるところだった。
何本ものピンでまとめた金色の髪の下に、白い右耳はちゃんとついていた。
しかし、右足を引きずり一歩ごとに顔をしかめる。
「待った?」
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。階段から突き落とされたのよ」
若菜は、つっかけていたスニーカーから包帯にくるまれた足を抜くと、座っていた僕の鼻先に突き出した。
メンソールの匂い。
医務室に寄っていたから遅くなったという意味なのだろう。
彼女の足は、ピンクのパンツの裾辺りからすでに腫れていた。
包帯の先に覗く小さな指は、ミニサイズのウインナソーセージのようだった。
「突き落とされたんですか」
村上刑事が話に割り込んだ。
若菜は右足を上げたまま彼の方へ視線を滑らせた。
そして、落としたキャンディーに群がる蟻を見るような顔をした。
若菜が黙っているので、しかたなく僕は両側の刑事を紹介した。
「警察? ……トモ……なにやらかしたのよ?」
◆
〈パブロフ〉のサークル室の前で、ようやく若菜を背中から下ろすと、僕は彼女からハンドタオルを借りて顔の汗を拭いた。
「すみませんね」と縹刑事が言った。
彼が若菜からも話を聞きたいと言い出したせいで
「足が痛いからヤダ」
と渋る彼女を僕が背負って運ぶことになったのだった。
「先ほどのお話では、高槻さん、ここには五時間目のあとに来たんでしたね。六時十分から遅くとも二十分の間ということですね」
「はい」若菜はふて腐れたように返事をした。
村上刑事はラックを覗き込み、そこに並んだ本の背表紙を口を動かして読んでいた。
「ノートしか置かなかったんですね。ほかにはなにも置いていかなかった?」
「ええ」
「これは」
縹刑事はハンバーガー屋の紙袋を持ち上げて見せた。
「ここにはなかったんですね」
「なかったです」
「確かですか」
「嘘をついても意味がないですから」
そう答えておきながら、まるで後ろめたいことでもあるかのように、若菜は縹刑事から顔を背けた。
「中には入らなかったんですか」
「用がありません」
僕がいなければ、若菜が〈パブロフ〉の部屋に入ることはなかった。
彼女は日頃から、〈パブロフ〉のメンバーが大嫌いだ、と明言していた。
――そりゃ、小説や詩のことは詳しいかもしんないけど。
でも、文学なんて、あたしたちの世界のごく一部分なわけだし。
そんなものをあがめ奉って、あたしとか知識のない人を馬鹿にする態度が嫌らしいじゃん。
自分たちの馬鹿さ加減がわかってないんだから、最低。
というのが、若菜の〈パブロフ〉評だった。
もちろん、最低と言われたその中には、僕も入っている。
最低の馬鹿と言われて嬉しいはずがない。
でも、彼女の言うことは一面の真実だった。
「中にはだれか残っているようでしたか」
「いいえ。だれもいなかったと思います」
「まちがいありませんか」
「まちがいないかって言われたってねえ、開けて見たわけじゃないんだから。そんなのわかんない」




