1.袋の中の耳(1)
完結いたしました。
安心して最後までお読みください。
OP曲:9mm Parabellum Bullet "Discommunication" で、どうでしょうか。
紙袋に入っていたのは右耳だった。
本物の。人間の。
僕は驚かなかった。あまりに突飛な事態の出来に、脳みそがオーバーフローしていたのかもしれない。
切断された耳朶。
僕は漠然とゴッホやデビッド・リンチの映画のことを考えた。
前日前夜の暑熱は新しい朝へ続いた。
汗がTシャツを重くする。
狭苦しいサークル室の温度はすでに三十度を越えていただろう。
窓を開け放っても、どろりと重たい空気は動かなかった。
だれか来るかと待ってみた。
わかっていたが、だれも来ない。
授業の二時間も前から出てくるなんて、うちのサークルでは常識外の行動だ。
僕にしても校門が開くのと同時に登校したのは初めてだった。
携帯電話があれば――と思った。ケータイがあればだれか呼び出せるのに。
この朝だけのことではなくて、僕は一度も携帯電話を所有したことがない。
だから、だれも呼び出せなかった。
僕は切り取られた右耳と一対一でそこにいた。
この耳は二〇〇一年七月三日の今日初めて現れたわけではなく、これまでもここにあったのではないか。
ふとそんな気がした。
これまでは僕が来る前にだれかが持ち去っていたのだ。
僕が帰ると、そのだれかは耳をここに戻す。
夜の間、耳はだれもいない部屋に放置される。
今日はたまたま僕がいつもよりも早く来てしまったために、出会うはずのなかった僕と耳がこうして対峙することになってしまったのでは?
だとしたら?――いらだつ自分が問い返す。
だとしたら、どうだっていうんだ?
◆
……一時間目のチャイムが教室棟の方から小さく聞こえた。
なにもしないまま、耳と二時間すごしてしまった。
僕には一時間目の授業がなかったので、サークル室のベンチから腰を上げなかった。
一生耳と向かい合ったまま、呆然としていそうな気がしてきた。
依然としてだれも来ない。
だれが来たところで助けにならないのはわかってる。
ただ僕は戸惑っていた。
一緒に混乱してくれる仲間が欲しかった。
カツのことを考えた。
いつでもまずカツからだ。
自分だけ知っていてカツが知らないというのはどうも落ち着かない。
バランスが悪い。
しかし、カツがこの場に現れるはずがない。
今頃は職場のプレス工場に向かうバスの中だ。
あるいは仕事をさぼって〈城〉で本を読んでいるだろう。
耳は戸惑う僕に関係なく、ただのモノとして、じっと静かに、そこにあった。
生命のかよわない耳はもう耳ではなかった。
なにに対しても無関心なモノらしさ。
かつて耳であったモノ。
そのモノの下には若菜のノートがある。
表紙の中央に「概論(現代文学)」。
右下隅に「高槻若菜」と丸い文字が並んでいる。
二時間目の前に学生ホールでノートを返す約束だから、サークルのメンバーでない彼女がやってくる可能性もほとんどない。
浅沼さんなら――サークルの長老的存在である大学院生はどうだ?
その温和ぶりと眉間にある大きな黒子のせいでミロクさんと呼ばれている浅沼さん。
穏やかに語ることばには不思議な力がこもっている。
彼が話すと、どんなまぬけな話も正しいように聞こえるのだ。
彼なら突拍子もなく出現した耳の意味を解明して、僕を戸惑いのぬかるみから引き出してくれるだろうか。
なにしろ〈名探偵〉だから。
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