86、モモ、ウサギになる~ぎゅってされると悲しい気持ちも飛んでいくよね~後編
「勝負あり、だな」
「くっそっ……参りました」
バル様の静かな言葉に、カイは悔しそうな顔で負けを認めた。肌が泡立つような気迫のこもった空気が霧散すると、周囲からわっと歓声が上がる。
「さすが団長! 今日も勝ったぞ!」
「カイさん、すごい健闘でしたね! 見応えありましたよ!」
「お二人共お疲れ様でした」
剣を引いたバル様が手を差し出し、カイがその手を取る。
「いい試合だった」
「今度はオレが勝ちますからね」
二人が離れると、今度は周囲をかき分けるように女性団員が三人出て来た。
「団長、カイさん、このタオルつかって下さい!」
「あの、良かったら私のもどうぞ」
「私も!」
お姉さん達は頬を上気させたうっとりした顔で、バル様とカイを見上げている。桃子の胸にちくっと痛む。ぺったんこな胸を撫でてもなんともないのに、お姉さん達がバル様に近づくのを見ていると、なんとなく悲しくなった。神殿事件の時から、私、ちょっと変だ。
「おぉ、気が利くねぇ」
「助かる」
カイが二枚のタオルを愛想よく受け取り、バル様は表情を変えずに受け取ったタオルで顔を拭く。二人は剣を近くにいた団員に渡して、自分の武器を腰に帯剣し直す。どうやら鍛錬用の剣を使っていたらしい。
たぶん刃は切れないようになっているんだろうけど、すごい迫力だった。本物を使っているようにしか見えなかったよ。すっきりしたのか、バル様は乱れた髪を掻きあげた。口元が僅かに上がっている気がした。きっとカイとの試合に満足しているものだったんだね。そうすると普段は見えない額との相乗効果で、野性味が足されている。横顔に男の色気があり、桃子はドキドキしてきた。
が、眼福だけど、威力がすごい。フェロモンがブワーッと出ている気がする。目が離せなくて見つめていると、バル様の目がふっと桃子に向けられた。目が合って驚いたように黒い目が少し大きくなり、そして鋭く細められた。
「あ、あれ?」
足早にバル様が桃子に向かってくる。なんとなく怒っているような気が……軍神様の伝言を伝えるためって理由を盾に勝手に来ちゃったから? 鍛錬の邪魔をしちゃった? 目の前に立ったバル様に、桃子はおどおどする。顔色を窺うようにそうっと見上げると、バル様が腰を曲げて顔を近づけてくる。そして、目元を指で撫でられた。
「──泣いたのか?」
ゾクリと背筋が震えるような低い声だった。そこには怒りが込められていた。しかし、それは桃子に向けられたものではない。違うなにかに向けられているようだった。安堵したら、じわりと涙が浮かんだ。我慢…………出来ないよぅ。
夢の中で無理やり暴かれた悲しみが溢れてくる。五歳児の身体は素直なもので、目から涙がボロボロ零れ出す。頭の中で電子音が響いてくる。桃子は助けを求めるように、必死にバル様に両手を伸ばした。そうしなければ、悲しみに溺れてしまいそうだったのだ。力強い腕にしっかりと抱き上げられる。桃子はセミのようにバル様の首にしがみ付いた。
「モモ、一体なにがあった?」
「うーっ」
ごめんね、幼児返りしちゃって。でも、溢れる感情に振り回されて我慢が効かない。五歳児が桃子の中で泣き喚いている。言葉にならないまま、唸る。野生動物の鳴き声みたいなのが口から洩れた。
「やはり無理をしておられたのですね。バルクライ様、私からご報告いたします」
「わかった。接客室を使う。──試合は終わりだ。全員通常訓練に戻れ。駆け足! カイは一緒に来い」
「了解」
バル様の指示にカイが頷き、団員達は姿勢を正して「はっ!」と従う。駆け出していく。泣いている桃子を気にしている団員もいたようだが、すぐに視線は離れていった。
「団長は先に向かっててください。お姫様の目が真っ赤で可哀想だ。オレは冷やすものとキルマを呼んでから行きますよ」
「頼む。モモ、我慢しなくていい。五歳児が泣くのは恥ずかしいことじゃないだろう?」
「……っく……うん……」
泣くのを堪えようとしていたら、バル様がそう言ってくれた。桃子の状態を理解してくれているのだ。いつもより強く抱きしめられて、心の中で暴れていた悲しみが、ゆっくりと静まっていく。泣きすぎてしゃっくりまで出てるし、ほんと十六歳としては情けないなぁ。呆れずにトントンとあやすように背中を叩いてくれるバル様の優しさは、弱った心を撫でてくれるようだった。




