【1巻発売記念】 番外編 モモ、お腹をつつく~顔も知らない誰かの努力も人の心を励ますもの~
皆様の応援のおかげで「お出かけ先は異世界ですか?」の1巻が本日発売となりました! 書籍版や特典についてお知らせがありますので、活動報告を一読いただければと思います。
それでは、番外編をお届け。
桃子は神妙な面持ちで自分のお腹を見下ろしていた。十六歳から五歳児に変化して、身体の小ささにはまだ不慣れなこともある。しかしながら、幼くとも中身は花の乙女なので、やはり気になる部分は目につくものだ。
短い指で自分のぷっくり膨らんだお腹をつついてみる。すると、ぷよんとした弾力が押し返してきた。
「やっぱりぶくっとしてるなぁ……」
桃子は洗面所の鏡の前でこっそりと自分のお腹をつつきながら、しょんぼりと呟く。そう、気になっているのはこれだ。毎日美味しいご飯を食べちゃってるから、お腹がムチムチしてこないか心配なの。……はっ!
桃子はある思いつきをして笑顔になった。心に花が咲いたような気分で洗面台の台から下りると、リビングに繋がる廊下を急ぐ。気持ちだけは全力疾走しているので、つい足早になってしまう。
そうして、リビングのドアを開けるのと同時に、キリッとした表情で口を開く。
「カイにお願いがあります!」
「お姫様が改まってどうしたのかな?」
桃子の突拍子もないもない申し出にも、カイは少し目を丸くしただけですぐに聞く姿勢を取ってくれる。なるほど、これがモテる男の人の対応力なんだねぇ。さすがホストさん。
「あのね、ちょっぴり運動がしたいの」
「運動? オレが見たところ、モモはよく動いていると思うけど。この間は体力切れを起こして、廊下で寝ていたよね?」
お屋敷の中を歩き回った後に疲れてしゃがみこんだら、うっかり寝落ちしてしまった時のことだ。気づいたら、ベッドの中にいて瞬間移動しちゃったのかと思ったよ。カイも私が廊下に落ちていてびっくりしたみたいだけど、その節はお世話になりました。
桃子はもじもじと指をいじりながらカイの顔を見上げる。ううっ、恥ずかしい告白だよぅ。
「でも、前より食べる量が増えちゃってね……?」
「ああ、そういうことか。そうだなぁ、体力作りをするのは健康にもいいし、オレが見ているところでならいいよ」
「本当!?」
「もちろん。危ないことなら止めるけど、それ以外ならやってごらん。モモはどういう運動がしたい?」
「木登り! お屋敷の中に木がたくさん生えているから、登れる木もあるんじゃないかなって思ったの」
「それならロンに聞いてみようか。木によっては幹がかすり傷を負っただけで枯れるなんていう繊細なものもあるからね。もっとも、年々、動植物は品種改良が進んでいるから、この屋敷に植えられている木なら問題ないと思うけど」
「そんな繊細な木があるんだ! 絶対に触らないから見つけたら教えてくれる?」
「モモはいい子だね。じゃあ、ロンのところに行ってみようか」
カイに優しく抱っこされて、桃子は生まれて初めての木登りに心を浮き立たせる。目標は落ちないことにするの!
ロンさんにおすすめされたのは、お屋敷の裏側に植えられた一本の木だった。目立たない場所に立っているけど、低い位置から枝分かれしているので五歳児の桃子でもしがみつけそうである。
「いかがでしょうか?」
「ありがとう、ロンさん。私でもよじ登れそうなの」
「ちょうどいい感じの木でよかったね」
桃子は案内してくれたロンさんにお礼を言いながら、幹に触れる。不思議なほどザラザラした手触りに顔を近づければ、そこにうっすらと傷がいくつも残されていることに気づく。
「あれ? 幹にいっぱい傷がついてる」
「これは……剣跡だね。バルクライ様が鍛錬に使ったにしては傷が古いな」
「バルクライ様は庭先で剣を振るわれますので、これは違いましょう。ふむ……前の持ち主の関係者が使用していたのかもしれませんな」
ロンさんの言葉に桃子は想像する。そういえば、前の持ち主はバル様のお父さんの弟さんだったはずなの。王族だから護衛の人もいたよねぇ? その人が鍛錬に使っていたのかな。……弟さん本人が使っていた、ってこともありそう。
人目のつかないところに傷があるのは、こっそり鍛錬をしていたとも取れる。桃子には木の幹に刻まれた無数の傷を撫でた。顔も知らない人だけど、努力していた証だもん。桃子は木登りを前に気持ちが引き締まるのを感じた。
「この木を登らせてもらうよ。傷が治っているから、丈夫な木ってことだよね?」
「ええ、そうですな。木に登られるのはようございますが、お怪我のないようにお気をつけくださいませ」
「はぁい!」
「万が一なんてないように、オレが下で見ておくから、モモも下りたくなったら言うんだよ?」
「うんっ、さっそく初木登りに挑戦するの。突撃―っ!」
桃子は両手を広げて木にビダリッと抱きついた。すべすべしていて痛くない。そのまま木の根元に足をかけてよじ登る。高さがまだないから怖くない。しがみついた態勢から上半身を起こして上の枝を目指す。うーんっ、もうちょっと!
指先が触れて飛びつくようにしがみついてさらに上を目指す、時々滑って下に下がっちゃうけど、ちょっぴりずつ登っていく。二番目の枝に到着したら休憩タイムだ。どのくらい登れたかな?
「ありゃ?」
「まだオレがモモを抱っこ出来る高さだね」
「幼い身からすれば、どれもが大きく映るものでございましょう」
下を見ると思ったよりもずっと低くて、桃子は目をパチクリさせた。その反応にカイとロンさんが柔らかく笑う。実際に、両腕を広げているカイの指先が下にあるくらいだ。桃子の中でも、五歳児が自分の勘違いに顔を赤くしている。
桃子は恥ずかし笑いをしながら、もう一度ふんぬっと木にしがみつく。じわじわ慎重に手足を伸ばしてさらなる高みを求める。やがて、三番目の大きな枝に辿り着いた。すると、そこにも切り傷の跡を発見する。剣でつけたものよりも小さいため、たぶんナイフのような小型の刃物を使ってつけたものだろうか。
桃子はそれを見て、この木を木登りした人が他にもいたことを悟る。今日はここまで、明日はその上という感じで毎日頑張っていたのかもしれない。そう思うと過去と今が木を通して繋がっているように思えた。
桃子はその傷を追いかけるようにもうひと頑張りして、幹にしがみついて両足に力を込めて懸命に上がっていく。全身が熱くなってくる。今まさに運動してるの!
体力の消耗が運動をしている実感を伴わせてくる。桃子は次第に楽しくなってきて、全身に力を込めて、なんとか次の枝に身体を乗り上げた。
「はぁ……はぁ……登れた!」
「オレの頭の上より高いとこまでいけたね。小さいのにすごいな」
「そこから見える景色はいかがでございますか?」
「えへっ、普段は見れない高さだから、世界が広いよ」
桃子は太い枝に座りながら上を見上げる。まだまだ上に枝があるけど、これ以上はちょっぴり怖い。すると、額に風が吹きつけてきた。頑張って火照った身体が涼しくなる。気持ちいいねぇ。
なんて顔を仰向けたら、大きな白い蝶々が目の前を横切っていく。輝く羽ときらきらした金粉が空中に広がり、すんごく綺麗で目を引かれた。うっかり身を乗り出しすぎて、枝にしがみついていた手からも力が抜けて、ズルッと身体が下に滑る。
悲鳴を上げる間もなくそのまま落ちかけて、咄嗟に両手ですぐ下の太い木の枝を掴んだ。怖くて、枝にぶら下がったまま目をぎゅっとつむりながら、保護者様の一人に助けを求める。
「助けてぇ、カイ……っ!」
「大丈夫でございますよ、モモ様」
「ほら、よっと!」
ぎゅっと目を閉じていたら、すぐに安定した腕に抱っこされる。なんの衝撃もなかったのを不思議に思いながら目を開けると、カイが笑いを堪えた顔をしていた。頭にハテナを浮かべていると、優しく抱き直されながら、ロンさんから思わぬ説明を受ける。
「モモ様がしがみつかれていた枝はあちらでございます」
手の平で示された枝はかなり低い位置にあった。当然ながら桃子の足はつかないものの、長身のカイなら五歳児を抱っこで回収が出来たわけである。
「……ご迷惑をおかけちまちた」
恥ずかしさに舌の回転も鈍くなる。桃子は熱い顔をカイの胸元に隠した。一人で大騒ぎしちゃって恥ずかしいぃぃ!
「そう気落ちしないで、モモ。怪我がないのが一番だよ」
「そうでございますな。落下されなかったのですから、十分な頑張りでございましょう」
「仮に落ちてもオレがいるからね、受け止める準備はばっちりさ。怪我なんてさせないよ。それにしてもなにに気を取られたんだ?」
「チョウチョが綺麗で見惚れてたら、うっかり木から手が離れちゃったの」
「好奇心旺盛だね。だけど、木登り中によそ見は危ないから、次は気をつけような?」
「うん、ごめんなさい」
心の中の五歳児もしょんぼり反省モードだ。気になることがあるとそちらに気を取られてしまうのは、五歳児の桃子が強くでているせいである。十六歳の意識でしっかり引き留めないといけないよねぇ。
「モモ様、今日の木登りはこのくらいになさいませんか? 額に汗をかかれておいでですし、水分を取られた方がよろしいかと」
「そうだね、少し休憩しようか。レリーナ達の手伝いもした上に運動もしたから、疲れただろう?」
「ちょっぴりだけ」
「オレが見ているから、疲れがとれたらまた挑戦してみればいいよ」
「……いいの? 落ちかけちゃったのに。それに、私ばっかり楽しくてカイが暇じゃない?」
「いいや、可愛いモモを見るのに忙しいね。オレはキルマとバルクライ様に任務内容の報告という自慢をしないといけないからさ、一緒に遊ぶのは大歓迎だよ」
パチッと綺麗なウインクをもらって、桃子はにぱぁーっと全開の笑顔を返す。お子様の遊びだけど、付き合ってくれるなんてカイは優しいホストさんだねぇ。張り切って木登りに再挑戦なの!
のどかな午後の屋敷裏には、幼女のはしゃぎ声が時折上がるのであった。




