352、カイ、上官を説き伏せる
*カイ視点にて。
午後の鐘三つが過ぎた頃、ルーガ騎士団師団長執務室は極めて珍しいことに人口密度が非常に高くなっていた。
「順番に並んでくださーい」
「重要度の高い順に、団長、副団長、カイ補佐官に書類のご提出をお願いします。判断がつかない場合は補佐官の元へご確認を」
手伝いに駆り出された団員が誘導を行っているのは、廊下にまで列をなした書類提出者である。運ばれてくるのはもちろん大量の仕事だ。
無言・無心・無表情と三つも無を重ねて仕事を捌くバルクライに、笑っていない目で口元だけ微笑みを浮かべているキルマージ、そこに混じるカイはそろそろ限界を感じていた。サインの書き過ぎで腕が瀕死だし、次は身体が死にそうだ。主に疲労で。
「キルマ、ルーガ騎士団が蓄えている備蓄について新しいものと入れ替えの要請が出ている。今年の討伐任務でどれだけ消費したのか、また前年とその前の年のものも比較対象にしたい。資料の用意を頼む」
ふいにもたらされた救いの言葉にカイは飛びついた。腹減りで全滅する前にオレがどうにかしないとな! 勢いよく椅子を腰から離すと、背筋が軋んだ。長時間座りっぱなしだったせいだろう。カイは足取りも軽くキルマージの脇に近づき、積まれている書類から目を逸らしながら、それはいい笑顔で申し出る。
「オレが行きますよ、副団長。資料室の鍵をください」
「カイ、あなたの魂胆はお見通しですよ。私が言いたいことはわかりますよね?」
「はいはい、すぐに戻りますとも。ただし、ティータイムの用意を頼んでからです」
仕事からの逃亡を牽制するようなそぶりは見せても、そんなのは振りだけだ。キルマージもカイが本気で逃げるなんて思っていない。それこそ幼馴染なのだから、こちらだってお見通しだ。
キルマージが机の引き出しから鍵を取り出して、カイの手の平に落とすと、こちらの軽口でようやく気づいたのか、バルクライが書類に走らせていたペンを止めてゆっくりと顔を上げた。少し考えるように首を傾げて口を開く。
「空腹なのか? それなら休憩に入って構わないぞ」
「いえ、私は平気ですよ。それよりも仕事を早く片付けたいところです。団長達がルクルク国に旅立つ前夜にはなんとしてもモモに会いたいので」
「それはオレも同じですけどね。お二人がなんと言おうと一緒にティータイムに入ってもらいますよ。上官達が仕事漬けだってのに部下だけが優雅に休憩なんてしてられないんでね。オレの心情もぜひ察してください。それに、疲れは仕事の味方にはなってくれませんよ。団長は無理にでも仕事を終わらせて今日もご帰宅されるおつもりでしょう? 疲れた顔を見せたらモモが心配しますよ? あの子は敏いですからね」
「………わかった。休憩としよう」
ここだ、と思う部分でモモの名前を出せば、途端に団長が折れてくれた。よっし! 心の中で拳を握っておく。まったく、オレときたら優秀過ぎる補佐官だな。内心で自画自賛して団長から書類を受け取る。
「じゃあ、ついでに軽くつまめるものも貰ってきましょうか。甘いのとしょっぱいのどっちがいいですか?」
「甘くないものを頼む」
「私は甘いものの方が嬉しいですね」
「了解、行ってきます。──ああそれと、片付けたものは机の左に寄せてあるから、提出書類を混ぜないようにな?」
「はいっ、カイ補佐官!」
後半の言葉を列に並ぶ女性団員に向けると、頬を染めて返事を返された。憧れを含んだ視線に甘く笑みを返して、キルマからきつい視線をもらいつつ、カイは執務室を出る。鍵の通された鎖を指でくるくる回しながら資料が保管されている倉庫に向かって廊下を進んでいれば、前から書類を片手に歩いてくる団員を見つけた。やって来たのは二番隊副隊長のファルス・ドクである。
「あなたが直接来るなんて珍しいですね。なんか問題でもありました?」
「いいや、椅子から解放されたくて出てきただけだ。やれやれ、それにしてもけったいな光景だな。廊下まで列をなすとは」
「オレも初めて見ました。でも、ファルスさんは幸運なことにその列に並ばなくてすみそうですよ」
半ば感心したように執務室の前に視線を向けて片眉を上げたファルスから、書類を受け取って流し読む。給金に関する報告書だ。問題なし、っと! カイはその場でサインをすると書類をそのまま受け取った。
「団長が前にルクルク国に行った時は、出立まで十分時間がありましたから、仕事の面でも余裕があったんですけどね。今回は急な話で、しかもタイミングも絶妙ときた」
「ディーカルとリキットのことだな。団長が四番隊の仕事を肩代わりされたと聞いたが?」
「率先して引き受けてくれたんです。バルクライ団長だからどうにかなってますけど、普通はあんなに早く仕事を捌けませんよ」
「仕事が出来る上に責任感も強くていらっしゃるからな」
「だからと言って、団長だけに負担はかけられませんから、オレ達も必死です。さて、この書類はオレがこのまま頂いときます。団長が不在の間はオレ達が団長の分まできっちりジュノール大国を守らないといけませんから、協力をよろしく頼みます」
「ああ、いくらでも使ってくれ」
ファルスの古株らしい余裕の滲む態度に、カイは頷き返して別れると廊下の中間部分にある書類倉庫室のドアの前に立つ。そのドアの表面には紋章が刻まれており、手を翳すと淡く発光した。カイはドアノブに鍵を差して開錠する。
初めて倉庫に踏み込んだ者は、立ち並ぶ本棚に驚くことになる。ルーガ騎士団の書類はここで厳重な管理の元で守られており、紋章に認識されていない者は鍵を持っていても開かないようになっているのだ。
重厚な棚が左右に十個並んでおり、置かれているのはすべてルーガ騎士団に関係する資料である。翌年になると一年の資料を纏めて本にするので、紙袋に入れて並べられているものが今年の資料だ。カイは一番手前の棚に複数並べられた袋と前年の本の中から必要な書類を抜き出す。
その時、一枚の書類がひらりと床に落ちた。その時、『脱走した罪人達』という不穏な文字が見えたため、カイは書類を拾い上げて内容を改めて読んでみる。
「オレ達が任務中に起こった罪人達の暴動のことか。そこで脱走した罪人がいたんだよな。その後は……旅人を襲ってルクルク国の女性を人質にした? 最悪な選択だな。なるほど、それでルクルク国との国境付近でルクルク国の兵士と戦闘になり鎮圧されたわけか」
書類の最後には【脱走者全員死亡につき捜索を打ち切る】と書かれていた。




