341、リキット、無駄な疲れを負う 男風呂編
*リキット視点にて。
桃子達が小さな女子会を楽しんでいる頃、自隊の隊長であるディーカルと一緒に大浴場に踏み込んだリキットは飛んできた殺気に咄嗟に身構えていた。
不自然なほど人気がない室内では、青い床と岩石で作られた浴槽、その中心に佇む巨大なドラゴンだけが目につく。いや、一人だけ湯船の中で悠々とくつろぐ男がいる。無駄な肉を限界まで削げばこうなるのだろう。痩身でありながら鍛え抜かれた身体を持つ男は、長い青髪を湯船の中に漂わせたまま、灰色の目を蛇のように細めて笑った。
「おっと、四番隊かい。男臭い風呂にようこそ、悪童隊長さんと童顔副隊長さぁん?」
「どうりで……やけに空いてると思えば。お前が独占してたのかよ、毒蛇」
口端を歪めたディーカルが嫌そうに洗い場に進んでいくので、リキットも腹立たしさを抑えて一つ開けた左側で身体を洗うことにする。それにしても、ガゼと鉢合わせるなんて運が悪い。この二人は相性が最悪なのだ。
ガゼ・イージンスターは平民出身の九番隊隊長である。癖の強いルーガ騎士団の隊長の中でもかなりの変わり者で、ディーカルが毒蛇と呼ぶほど嫌う相手だ。実力はあるが、団長に突然切りかかるなど問題行動も多い。しかし、そんな隊長にも関わらず九番隊の団員達はなぜか畏敬と共に自らの意志で従っているようだった。
「独占? そりゃ言いがかりだなぁ。オレは別に誰にも出ていけなんて命令はしてないぜ。ほぉら、六番隊の副隊長だってそこにいるだろ?」
指差された方を見れば、隅で気配を消していた六番隊副隊長、ハンク・カナリオが白髪の混じった茶色の短髪を掻きながら、壮年の渋みばしった顔に苦笑を交える。
「こんなとこで言い争いは止めやしょうぜ、隊長方。風呂はくつろぐところだ。おっしゃる通り、ガゼ隊長のひと睨みでそそくさと出て行った団員は多かったのは事実ですがね」
「そらみろ! 仲間は大事にするもんだ。お前みたいな奴は風呂でこそもっと交流しとけ。時には背中を預けて一緒に戦う奴等なんだぜ?」
「はっ、説教かい? オレは誰かに頼るほど軟弱じゃないんだ。てめぇは強いが、本当の強さは孤高の上にこそ存在する。その点、団長はいい。オレが何度ぶっ殺そうとしても、ただ一人の強者として立ち続けている。あれぞ、孤高の強さを持つ者だ」
「確かに団長は強い。だがよぉ、孤高ってのはちと違うぜ。あいつの周りには支えたいと思っている奴等が山ほどいるんだからな。それに今は心のよりどころを見つけた。ありゃあ、これからもっと手強くなるぜぇ」
「……感情を抑えることも出来ない甘ったれたガキが、なぜ加護者なんぞに選ばれたのかねぇ? だが、考えようによっちゃあ使い道はあるなぁ。オレがあのガキを潰したら、団長もお得意の無表情を崩しそうだろ?」
「なんてことを言うんですか……っ!」
リキットが思わずそう漏らした時、風が駆け抜けた。剥き出しの背中と赤々と光る火の精霊。ディーカルが拳を振りかぶってガゼに突っ込んでいく。湯柱が高く上がって降り注ぐ最中、拳を受け止めたガゼとディーカルの間でぎりぎりと力比べが続く。指輪をつけているのに僅かに火の精霊が集まってくるなんて、非常にまずい状況だ。
それなのに、ガゼは蛇のようにねっとりと笑う。
「ホラ話かと思いきや、本当に魔法を使えるようになったのか。なのに持ち主がこれじゃあ勿体ないぜ。ディーカル、てめぇもガキに絆された口かい?」
「チビスケはオレ達と一緒に戦って、どデカイ貢献をしている! あんな小さなガキがよぉ、加護者としてのクソ重い看板を背負って、必死こいて他人を救おうしたんだ。オレ達みたいに剣を使えるわけでも、腕力があるわけでもねぇのによ、度胸はそこらの男よりよっぽどあるぜぇ。たいそうな口を叩くお前は、一度だって誰か救おうと行動したことがあるのかよ?」
「……そりゃあ、なんの笑い話だ? 弱い奴を救う必要がどこにある? 死ぬ奴は遅かれ早かれ皆死ぬ。生きる奴はどんな状況でも図太く生き残る。そういうもんだろ?」
今度はガゼが拳を振るい、ディーカルが手で受け流す。二人の隊長が風呂のど真ん中で両拳を構える。
「オレはお前のその考え方が死ぬほど嫌いだわ」
「そうかい、そいつは奇遇だな。オレもてめぇ等の甘っちょろい考え方には虫唾が走ってんだよ」
「お二人ともこんな場所で争ってどうするんですか! 隊長も気を静めてくださいっ、火の精霊が集まっています」
「止めんな、リキット」
「てめぇが引っ込みなぁ」
腰タオル一枚で、大浴場で殴り合いに発展しそうだ。そんな二人を厳しい声が一喝した。
「いい加減にしなせぇ!」
「ぶおっ!?」
「……っ!?」
巨大なドラゴンの口から流れ出るお湯を腕で遮り、バザァッと二人の頭にぶっかけたハンスが腕を組んで二人の隊長を前に仁王立つ。
「ルーガ騎士団の隊長方ともあろうもんが、みっともねぇですよ。風呂で騒ぐのは、それこそガズ隊長の言ったガキがすることでしょう?」
「ハンス、てめぇ……」
「なにか反論がございやすか? 喧嘩を売られようが、こちとら受ける気はねぇですぜ。オレは弱いんでね」
「よく言うぜ。──おい、ガゼ。ここは引いといてやるよ。だがなぁ、よく考えやがれ。お前がチビスケに手を出せば、お前がダイスキな副団長がブチ切れるぞ。ついでに、そん時はオレもお前をぶん殴る」
「……ちっ、あの女顔もかい。どいつもこいつも生ぬるいこった」
ガゼは不機嫌そうな顔ではりついた長い髪を指で払って、ザバザバと湯船を上がる。髪の間から背中に大きな傷が見えた。あれが噂の……リキットは浮かんだ思いを言葉にはせずに、大浴場から出て行く姿を見送った。その姿が完全に視界から失せるとようやく脱力する。なんで風呂でこんなに疲れなきゃいけないんだ、まったく!
「ディーカル隊長も気を静めてくだせぇよ? もういないようだが、火の精霊の熱で湯だっちまったらたまりませんぜ」
「おう。……迷惑かけたな、ハンス。毒蛇のせいで無駄な時間を食っちまった。さっさと風呂に入って食堂に行かねぇとな」
「ですね。それにしても、あんな安い挑発に乗るなんて、あなたらしくもない」
短気そうに見えてディーカルは意外と気が長いタイプだ。それなのに、あんな風に喧嘩を買うとは思わなかった。リキットが安堵の混じったため息をつきながら視線で理由を尋ねると、ディーカルが湯船から出てきた。顔を手で拭って眉をひそめている。
「本気で乗ったんじゃねぇよ。ああでも言わなきゃ、ガゼは本気でチビスケをやりやがんぞ。キルマの名前を出せばちったあ考えると思ってな。蛇みたいに粘着質なしゃべり方といい、あの性格といい、あいつだけはどうにもいけすかねぇわ」
「わかります。同じルーガ騎士団の隊長なので折り合いはつけますが、僕も正直言ってあの人は好きになれません」
「珍しいな、お前がそんなことを言うなんてよぉ」
「……隊長、あの噂は本当なのでしょうか? ガゼ隊長が自分の隊に副隊長を置かないのは、仲間に背後から刺されたことがあるからだというのは……」
「さぁな。だが、それが事実だとしてもオレは驚かねぇよ」
ディーカルは鼻で笑うと、洗い場に腰を下ろしてさっそくガシガシと頭を洗い出す。よくよく考えればあの性格だ。驚くようなことでもないのかもしれない。リキットはそう思い直すと、団長達との昼食に遅れまいと慌てて石鹸に手を伸ばした。




