第一の野営:東の荒野にて その3
「そんなふうに軍を脱走した俺に行く先のあてがあったわけではなかった。どこに行っても内乱また内乱の西部地域からとにかく抜け出したいとは思っていたが、その方角が東や南ではいけない理由はなかったからな。
だが、俺が選んだのは北だった。俺はあの導きの星を目印にしたんだ。夜影に紛れての脱走だったせいでもあるが、数多の星の中でただ一つ、居場所を変えないあの星の佇まいに引きつけられた。いや」
巨躯の戦士が口をつぐんだ。夜空の北に輝く白き星を見上げ、しばし言葉を探る風情だった。
「……縋った、というのが本当だったかもしれん」
「変わらぬもの、揺るがぬものにということですか?」
呟きつつアラードは思った。そのとき師が別の道を選んでいたら、自分は師と出会うことも、こうして話を聞くこともなかったのだと。ほんの小さなきっかけで運命は変わるのだと思う一方、話を聞けば師が北を選んだのは必然だったとも感じられ、複雑な心持ちだった。
「従軍するまで村から出たことがなかった俺でも、瓦解した王国の北にノールドという国があることぐらいは知っていた。だから導き星に従って北上すれば、いずれたどり着けるだろうと考えたんだ。現に荒野を突っ切ったところでノールドに通じる街道にも出られたしな。
街道は北から少しずつ東へ向きを変え、やがてはるか遠くには頂の白い連山も望めるようになってきた。だが国境にたどり着く数日分ほど手前の場所で、俺は古びた寺院に出た。それまで道を訊ねた相手は、誰もそんなもののことなど教えてくれなかった。もし日暮れ時でなかったら俺も通り過ぎていたかもしれん。単に古臭いというよりもどこか見捨てられたような、荒廃した様子を隠せぬ建物だったしな。だがその白壁の寺院こそ、ラーダ教団の西部地域における最も北の拠点だったんだ」
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「今夜の宿なら入るがよい。部屋はいくらでも空いておる」
そういう相手を、だが若きボルドフはまじまじと見下ろしていた。痩身に薄暗い寺院の闇をそのまま纏ったかのような黒っぽい長衣の男。尖った鼻や薄い唇の細面は全ての余分を削ぎ落としたもののごとくで、見上げる切れ長の目の鋭さがいっそう只者ならざる風貌を印象に刻まずにおかぬ。そんな顔が夕映えの残照及ばぬ戸口の中、右横からの燐光に照らされているのだ。光に視線を向けた巨躯の若者は、それが蝋燭の灯りではなく杖の頭にはめ込まれた水晶玉らしきものから放たれているのを認めて思わず目を見開いた。目ざとく気づいた相手が薄い唇の端を歪めた。
「魔術師を見るのは初めてのようだが、そう固くならずに入るがよい。なにも取って食いはせん」
その口調にようやく相手の表情が苦笑いであると気づき、若き巨漢は気を呑まれつつも一礼すると古びた戸口を潜った。
広間に通されたボルドフが勧められた椅子に座ると、魔術師は杖を壁に立てかけ棚の上のパン籠を手にした。そのとき初めて、ボルドフは魔術師が左手しか使っていないことに気づいた。袖が長くて見えないが、揺れ具合からどうやら右の袖には腕が通っていないらしかった。
「食事がまだなら食べるがよい。飲み物は薄い葡萄酒しかないがよいな?」
「感謝します」
人心地ついたボルドフに名を問うた魔術師は自らはオボールと名乗ると、答えた巨漢にさらに訊ねた。
「街道をやってきたのであれば、おまえはノールドに行くつもりか?」
頷いたボルドフに、だがオボールは告げた。
「残念だがそのままではノールドに入れぬ。この地域の内乱以来かの国もまた国境を固めておるのだから。まさか知らずにやって来たのか? ノールドには誰か知り合いなどおらぬのか?」
困惑したボルドフが問われるままに事情を話すと、オボールは棚から古びた羊皮紙を取り出した。
「ノールドでどう暮らすのかの当てもないというなら、一つだけ国境を通る方法はある。アルデガンを目指す者になら、この寺院で通行手形を書くことができるのだ。だがアルデガンにひとたび入らば容易に出てこれるとは思うな。この私のような戦えぬ身にならぬ限り、人の世を魔物の脅威から守るため骨を埋める覚悟を求められる場所なのだ」