第四七三話 神破の女
「やっぱり……神破カンパニーのセキュリティは手強い……」
明智家が乗ってきた車に残されたPC。トランクには厳重な鍵が掛けられていたが、そんなものはミルからしてみれば大した問題ではなかった。
パソコンにもパスワード付きのロックが掛かっていたがこれも問題はない。しかしその先が壁だった。
中身を完全に閲覧するには神破カンパニーが仕掛けたセキュリティを完全に解く必要があるのだが、これが中々に手強く、彼女であっても簡単にはいかなかった。
なので、ミルはパソコンの電源を切り、一旦持ち帰る事に決めた。本来は証拠品として押収されるものだが、ミルでさえ手こずるこれの中身は公安であってもどうしようもないのは明らかだ。
それならばミルが持ち帰り解除してしまった方が公安にとっても良い。幸い零課は神薙家と少なからず関わっている。ミルが持ち帰ると聞けば駄目だとは言わないだろう。
ノートパソコンを小脇に抱えてミルは車から降りた。いかにもといった高級感漂う黒塗りの車だった。
そして周囲には黒服でサングラスの男たちが転がっていた。死んではいないが意識は一様に刈り取られていた。勿論これをやったのはミルである。
本来なら力仕事は好まないミルだが、今回は兄のナゲルが法廷に立たされていた。尤も全て明智家を罠にはめるためのフェイクであったがその後もちょっとしたお仕事が残っている為、こちら側の仕事はミルが頑張った形だ。
「……兄貴は上手くやったかな?」
スマフォを取り出し、ナゲルにメッセージでも送ろうかと考えるミルである。だがその時であった。
「悪いんだけど、そのノートパソコンだけは返してえ貰えるかしら?」
それはミルの正面から聞こえていた。だが、そんなことはありえないはずだった。なぜならミルは車を出た後、周囲を確認するのは怠っていない。正面などその最たるものだ。
まして今、目を離したのはスマフォに目を向けた一瞬だけだ。だが、にも関わらず何者かの声が耳に届いた。
視線を移動する。その目は若干の戸惑いを含んでいた。
まるで魔法のように目の前に現れた人物は目鼻立ちの整った女だった。大人の色香を多分に含んだ女だった。
スーツの上からでも判るメリハリあるボディ。手足はスラリと長く立ち姿も含めて一流のモデルのようですらある。
ミルの目線が女に向くと、肩まである黒髪を軽く掻き上げながら目を細め、ニコリと微笑んだ。
それは見る人によって天使を思わせる笑顔であろう。だが、勘の鋭い人間から見れば――悪魔の笑みだ。
故に、弾かれるようにミルが後方に飛んだ。そこに明智家の車があったにもかかわらずだ。おかげでミルの背中が当たり、車体を背にした状態のまま立ち止まらざる得なくなる。
「へぇ、やっぱり神薙家の血を引いてるだけあって、鋭いみたいね」
フフッ、と不敵な笑みを浮かべつつ女が言った。ミルはじっと女を見続けていた。目を離すわけにはいかず、また目を離せなくもあった。
神話に出てくるような龍と対峙したような、いやそれではたりないが、ただそれを例えるには言葉が足りない。それほどの相手だ。
ミルは神薙家の中では決して強い方ではない。しかしそれでもその身体能力は十分常識の外側にいる。
だが、目の前にいる女は常識の外側の更に遥か外側にいた。明智家に仕える黒服程度なら銃火器を手にしていても余裕で対処できるが、この女相手では神薙家最弱のミルではまるでお話にならない。
「その感覚は重要よ。命を大切にしたいなら今後も大事にすることね。さ、いい子だからそのパソコンをこっちに寄越して頂戴」
敵意がないと言わんばかりに笑みを深くさせて手を差し出してきた。
ミルは瞬時に脳をフル回転させた。この状況でもしミルに分があるとしたら頭脳だけだ。
この状況を乗り切る最適解を導き出さなければ。しかも一瞬で――だが、その為に扱える材料があまりに……。
「ちょっと待ったーーーー! 叔父様の大事なお孫さんに手を出すのはこの私が許さないんだからね!」
裂帛の気合とともに女とミルの間に溌剌な少女が割り込んできた。
え? とミルが短く発した。何故ここに? といった様子であり。
「貴方、メクルちゃん? どうして?」
「へっへ~ナゲルに頼まれていたんだよね~もしミルちゃんが怪我したらナガレ叔父様が悲しむと言われたらいずれお姉ちゃんになる身としては放っておけないよ!」
「いや、お姉ちゃんって私の方が歳上なんだけど」
ジト目で反論するミルだったが、少し心に余裕が出てきたようだ。
「へぇ……また可愛らしい女の子が出てきたものね」
「ふふ、見る目が少しはあるみたいね。そう、ナガレ叔父様直伝の柔術を極めた美少女柔道娘。それが私よ!」
「……言ってて恥ずかしくないの?」
「こういうのはね。最初が肝心なのよ! 誰かは知らないけどガツンッと……」
そこまで言って、メクルの唇は真一文字に結ばれた。汗が一滴、頬を伝う。
「……参ったね。こんなのルール違反でしょ? なんで本編とは別のサブイベントにラスボスみたいなのがいるわけ?」
メクルがゲームに例えて述べるが間違いではない。それぐらいの相手だ。
ミルはメクルの介入で少しは心に余裕ができた。それはやはり一人よりは二人の方が安心できるからという点ではあったが、それでも現在の状況がそこまで好転する気配はなかった。
メクルは強い。彼女もまた常識の外側にいて、ミルと比べても遥かに強い。だがその外側でも目の前の女の位置までは届かない。ミルでさえそれが判るのだからメクルにも察せられた筈だ。
「私は勘の鋭い子は嫌いじゃないわよ。無駄な血は流したくないものね」
穏やかに交渉しに来ているようだが、言外には、もし指示に従わなければこの場に血が流れるという意味も内包されている。
「判ったらそのPCをさっさと渡して貰えるかな?」
「……あぁ言ってるけど、渡すわけにはいかないんだよね?」
「……出来れば。でも、逃げる時間なんて与えてくれないよね……」
「なるほどね……いいわ、なら! それぐらいの時間!」
ミルの言っている意味を汲み取り、低い体勢で女に突撃した。レスリングにおけるタックルより更に低い、地面すれすれまで腰を落としてのぶっこみ。
「取った!」
足を取り、脇を取る。そのまま相手を崩し――
「いくよ! 鬼嵐!」
体重を乗せ、今にも転びそうな状態からの回転投げ。これを超高速で行うことで爆発的な回転力を生み、投げ飛ばされた女は天井にめり込んだ。
「え? あ、あれ? もしかして私やりすぎた?」
「う~ん、確かにすでに気絶してた黒服だからね。彼も散々ねぇ」
「は?」
メクルが振り返ると、女はミルの横に並んでメクルの姿を観察していた。ミルの表情がこわばっているのがわかる。
「そ、そんな、私が間違うなんて……」
天井に視線を動かすメクルだったが、女の言う通りめり込んだのは先に気絶して倒れていた黒服の一人であった。
しかし、メクルは完全に相手がこの女だと信じ切って投げていた。つまり、この女は瞬時に自分と黒服とを入れ替え、ミルの横に移動したということになる。
「凄くお強いわね。でも、それじゃあ駄目。私には勝てないわ。それとも、今度は少しはやる気を出してみる?」
「この! 上等!」
「待って!」
ミルが叫んだ。そして小脇に抱えていたノートPCを女に差し出す。
「これを渡したら、本当に見逃してくれるのよね?」
「見逃すも何も、私の目的はその中身だから、くれるというなら文句はないわ」
「ちょ! ミルちゃんいいの!?」
「……しょうがない。勝ち目が無いのは明らか。それなら素直に渡したほうがいい」
メクルが声を張り上げるが、ミルはパソコンの中身よりもこの場を無事乗り切る道を選択したようだ。
「お利口さんね。長生きするにはそれぐらいでないといけないわ。それじゃあ、遠慮なく貰っていくわね」
女はヒョイッとPCを取り上げ、スタスタとあるき出した。メクルは納得できてないようだが、彼我の実力差がわからないほど鈍くはない。
「あ、それと、あの一瞬でデータをメモリーにコピーした手腕は素直に褒めてあげる。流石神薙流よね、データの転送速度すら自由に出来るんだから。でも――」
ヒョイッとメモリーを胸元から取り出し、翳すようにしてミルへ見せつける。
「それでも私には通用しないわよ。でも、その腕に免じて見逃してあげるわ」
「……くっ」
女の言うように、ミルは彼女の意識が一瞬でもメクルに向けられたそのときに、手早くPCの中身をメモリーにコピーしたのである。
さっき、ミルが逃げる時間をと言った意味には、少しでも時間を稼いでほしいという意味も含めていた。逃げるのは無理でもほんの少しでも意識が自分から外れたなら、データをコピーする自信があった。
だが、結果的にそれは無駄に終わった、かのように思えたが。
「――え? これ、ディスク?」
「フフッ、それは素直に、とも言えないけど、ま、少しは楽しめたお礼よ。明智家について必要な情報は全てそれに収まってるから、あとはどうぞご自由に」
そこまで言い残し、女は現れた時と同じ様に、今度は煙のようにふたりの間から姿を消した――