第四五五話 やってきた大物
「そんな、本当にどうしようもないのですか所長!」
「そ、そんな顔しないでくれ。私だって出来る事なら協力したい。だけど、現実問題として今事務所は存続できるかどうかも怪しい状況なんだ……」
立木 薫は憤っていた。理由は新牧 美歌に関係していた。
あのアケチエンターテインメントによってレッスンを受ける先生も、露出が増えてきてようやく陽の目に当たり始めていた所属タレント達も引き抜かれ、今確かに事務所は火の車である。
だが、だからこそカオルはミカに賭けるべきと考えていた。それだけの力が、才能が、彼女にはあると思っている。
しかしそれには指導者が必要だ。自己流というと聞こえはいいが、誰の指導もうけずそんな事を繰り返していると変な癖がつく可能性もあるし、何より良し悪しの判断が難しい。
客観的な立場から見て指導が出来る第三者の存在は必要不可欠なのである。
だが、所長には今ミカ一人の事を考えていられるほどの余裕はなかった。
残った所属タレントも、今のところそこまで仕事は多くなく、来月のスケージュルなどはほぼ真っ白なままなのである。
この状況で、ミカに先生を付けてくれと頼むのは無茶がすぎる、そんな事はカオルにも判っていたが、しかし、ここでそれを諦めるのはあまりに酷であり、彼女の頑張りとて棒に振りたくはない。
「はぁ、せめて仕事がもう少し増えれば、うぅ、私の髪の毛がまた抜けそうな思いだよ……」
だいぶ寂しくなってきた頭頂部を撫でながら所長がいった。元々寂しかったが、今回の件でよりいっそうハゲしさをましたようだ。
『しょ、所長! 大変です! 大変ですーーーー!』
その時だった、所長室のドアが派手に開かれ、眼鏡を掛けた中年の女性が飛び込んできた。
この事務所で長年事務を担当してくれている、泉 温子四二歳未婚である。
「なんだいアツコさん、騒々しい」
「そ、それが、それが、大変なんです! た、大変なんですよ~!」
「アツコさん、それで何が大変なんですか?」
「全く、いつもアツコにおまかせよ! となんでもこなしているのに珍しいねぇ」
そう、確かにアツコは優秀だ。経理から事務所全体のスケジュール管理、プログラムからWeb閲覧、トーク番組の司会までこなす技能派なのである。
『アツコさん、もう入ってもよろしいかしら?』
「ひゃん!?」
アツコの肩がビクンッと震えた。どうやら彼女が慌てふためいている原因が、ドアを挟んだ向こう側の声の主にありそうだ。
声の感じからすると女性なのは間違いないだろう。落ち着いた雰囲気のある大人のレディ感が声からも漂っている。
「なんだいお客さんかい? 勧誘か何かかな? それとも新しい所属希望者? 参ったな、うちも今は余裕がないんだけどねぇ……」
所長が椅子から立ち上がり、わたわたしているアツコの代わりにドアノブに手をかけた。
そしてドアを開けたわけだが。
「はい、おまたせして申し訳ありませんね。私が所長の今野 禿得です」
「あら、所長様でしたか。これはこれは初めまして。私、神薙 心恵と申します。本日は突然お邪魔してしまい――」
パタンっと、挨拶の途中でハゲエがドアを閉めた。
「あれ? 所長どうしたのですか? お客様だったのでは?」
所長の行動を疑問に思ったのか声をかけるカオルであったが。
「……ど」
「ど?」
「どうしよーーーー! 死ぬんだ! 私はきっと今日死ぬんだーーーーーー!」
「えぇええええええぇええええええええええぇええ!」
突然の所長の死ぬ発言に、驚愕するカオルである。
「い、一体どうしたんですか! まさか、そこまで経営が圧迫されてたんですか? ハッ! もしかしてそのドアの向こうに借金取りが! くっ、アツコさん早く警察を!」
「キャーーーー! どうしようどうしよう! 私初めて見ちゃった! きゃ~~! あ、そうだ、早速Aiinで皆に教えてあげないと! あ、アインスタにも写真を、でも許可もらわないとやっぱり不味いわよね……きゃぁあああぁああ! どうしようどうしよう!」
「いや、アツコさん警察……」
しかし、アツコはすっかり興奮しきっていてカオルの声が全く耳に届いておらず、所長に関しては急に笑い出す始末だ。
「これは、一体何が?」
「あのぉ、大丈夫ですか?」
その時、再びドアが開き、ハッとする程の美しい女性が顔を覗かせてきた。
「勝手にすみません。何か死ぬとか物騒な声が聞こえたので……」
「…………」
カオルは固まったカオルは固まったカオルは固まった。
アツコは興奮状態に陥っている、所長は混乱している、カオルは完全に固まっている。
「え~と……」
そんな三人の様子に苦笑するココロエ。すると、ハッとカオルが硬直状態から立ち直り。
「そうか! これは夢なんだ!」
はっきりと断言した。
「あははっ、夢じゃないですよ~とりあえず皆さん一旦落ち着きましょうか」
そんなわけで、てんやわんやとなりはしたが、一旦全員を落ち着かせる事に成功したココロエであり――
「お、お口にあうか判りませんが」
「いえ、どうぞお構いなく」
事務のアツコがコーヒーを入れてやってきた。所長に促され、ココロエは既にソファーに腰を掛けている。
テーブルを挟んだ対面には、所長とカオルの姿もあった。
アツコのソーサーを持つ手は震えていた。よほど緊張しているのだろうが、テーブルに置くなり心配そうに口を開き。
「あ、あの、このコーヒーなのですが、これ所長が経費をケチって頼んだ安物で、本当お口にあうか疑問なのですが、て! あうわけないだろこのハゲ! 世界的大女優ココロエ様だぞ! こんな泥水を啜れとか何考えてんだ!」
「だって今ウチにはそれぐらいしかーーーー!」
「あ、あの大丈夫ですよ。本当お気になさらず」
アツコに首根っこ掴まれ前後に激しく揺さぶられる所長。悲しいかな、その度に残り少ない生命がまた散っていく。
その姿を哀れに思ったのか、ココロエは気を遣い、折角いれてくれたコーヒーにも手を付けた。
「うん、美味しいですよ。アツコ様は入れるのがとてもお上手ですね」
「そ、そんな、こんなのインスタントですし、それに私みたいな見苦しいおばさんがいれても……」
「全くだね、もう少し余裕があればあと一人若い子をいれても良かったんだけどねぇ」
「んだとこのハゲ! ぶっ殺すぞ!」
「君が優秀なのは認めるけどその性格なんとかならんかね!」
ため息をつくカオル。実はこのやり取りはわりといつものことなのである。
「そんな、諦めたらいけませんよ。それに私はアツコ様はとても素敵だと思う。魅力ある女性だと思いますよ」
「え? そ、そんな。ココロエ様にそういって貰えるのは嬉しいですが、もう四〇を過ぎてますし、この年になっても結婚できないオールドスミスの私なんて……」
(鍛冶屋なのか……)
(鍛冶屋なんだな……)
心のなかでツッコミを入れる二人は置いておき、ココロエがバッグから自前のメイクアップセットを取り出した。
「諦めたらそこで女は終了よ。いつだって見られているという意識を持つことが大事なの。ちょっと、私に任せてみて」
「え? そ、そんな勿体無い!」
「いいからいいから。うん、やっぱり化粧のノリが凄くいいわ! これならまだまだ綺麗に――」
そして三〇分後。
「ふぅ、手持ちのしかないから、ここまでしかできないけど、それでもかなり変わったと思うわね」
「てか、誰これーーーー!」
「え?」
所長が驚きの声を上げた。しかしそれも当然だろう。何せ今目の前にいるのはさっきまで喧嘩腰で渡り合っていた事務員の女性ではない。
それほどまでに美しく変貌していた。蛾が蝶に生まれ変わったがごとくである。
そして、所長の態度の変わりように、アツコは鏡を取り出し自分の変化を確認する。
その途端、誰これ、と彼女自身が声を上げた。
「どう? 髪を整えてアップにして、マッサージでリンパを刺激、血液の流れを良くし、ウォッシュで潤いを施したの。むくみも大分取れたし、メイクで小ジワも目立たなくしておいたわ。これ、自宅でも十分できる事だから出来れば続けてね。あとはそうね、眼鏡好きの男性も確かにいるけど、アツコさんはコンタクトの方が絶対いいと思うの。検討してみてね」
「は、はい! 感動です! 私、もう諦めてたのに、こんなに変われるなんてキャーーーー!」
感激するアツコである。そして、これをきっかけに間もなくしてアツコはとある企業の社長に見初められ、四二年の独身生活にピリオドを打つことになるのだが、それはまた別の話である。
「……さて、色々話はそれましたが、その、正直僕も驚いているのですが、貴方ほどの大物が何故このような吹けば飛ぶような事務所に?」
「いや、わからなくもないけど、カオルちゃん毒舌だね!」
所長も喚いた。だが、彼女の存在はそれほどまでに似つかわしくない。
「そうですね。私、まどろっこしいのは嫌いだから、単刀直入に言わせてもらうけど、この事務所に所属してる新牧 美歌さんにレッスンを付けたいと思ってるの。それで、しばらく私に預けて貰えないかしら?」
『…………え、えぇええええぇええぇえええぇええええぇええ!?』
事務所内にカオルとハゲエの大声がこだました――




