第四四九話 グレツ男爵
今まさに、マーベル帝国は大変革の時を迎えようとしていた。それは帝国の為政に疑問を感じた一人の冒険者が引き起こした事。
最初は大海に投げた小石程度の存在でしか無かった彼らは、後に反帝国軍を名乗り、儀軌を翻すようになった。
大海に投げた程度のはずだった小石は、その勢いを強め、遂に大きな波へと成長する。
小国が故に帝国に隷属するしか道が無かった領主たちも、次第に反旗を翻すようになり、協力者は徐々に増えていった。
そしてついに彼ら反帝国軍は、要所となる砦を攻略し、砦にいた帝国騎士や帝国兵さえも味方につけ敵の牙城に迫るまでに至ったのである。
そして反帝国軍によって引き起こされた内乱の影響は、他の領地にまで波及していくこととなる。
例えば今現在、領地を放り出し逃奔中のグレツ男爵などもその中の一人だ。
この男は田舎の少領を任されていた男爵であるが――これまで帝国の威光を笠に領民達の生活を蔑ろにし、処女権などというものまで行使し疲弊する民のことなど一切お構いなく好き勝手生きてきた。
だが、ここにきて反帝国軍の擡頭によって、帝国の威勢にも陰りが見え始め、結果、グレツ男爵にも火の粉が降りかかる羽目になってしまう。
これまで暴虐につぐ暴虐ぶりを発揮してきたつけが回ってきたと言うべきか。少領地の領民すらも遂に暗君に対し反旗を翻し各々手に武器になるものを持ち、屋敷に大挙してきたのである。
しかもその中には多くの冒険者も含まれており、元々小さな領地で派遣されていた帝国兵も多くは無かったこともあり、結局あっさりと屋敷の守りは瓦解し、グレツは残された僅かな兵や騎士らを連れ最低限の金品を持ち出して逃げる他無く――今はこうして薄暗くなりつつある森の中を踏破しているというわけだ。
「むぅ、それにしても忌々しい! 愚民どもが散々世話してやったにも関わらず、よりによって領主たるこのグレツ様に牙を向けるなど!」
周囲の兵士も、いや全く、や、とんでもない奴らだ! などと同調しているが、実際のところはこれまで好き勝手やってきたツケが回ってきたに過ぎない。
尤も、グレツの逃奔に扈従している兵や騎士もグレツと同じ穴のムジナであり、上手いことこの男爵に取り入ることで甘い汁を吸いおこぼれに預かってきた連中でもある。
勿論、領内でもその傍若無人ぶりは有名であり――今更領民側につくなど絶対に不可能な者たちの集まりであった。
「それにしても今回の件はあまりに決起からの動きが早すぎる。くそ! やはりあの狸め! ちゃっかり反乱軍などに寝返り、この私の領地を狙うため、愚民どもに入れ知恵をしたに違いない!」
一人荒ぶるグレツ。彼が憤慨しているのは別の地の領主に関してだ。グレツ領の近隣に位置し、互いに互いを煙たがっていた。
その領主が反乱軍に与しようとしているという情報は実はグレツの耳にも届いていたのだが、反乱軍などどうせすぐに鎮圧されるだろうと高をくくっていたグレツは気にもしていなかった。
だが、その結果が今の現状である。
とは言え、グレツについてくるしかない周囲は、そうです、そうに違いないなどと囃し立てた。
尤もこれはグレツの憶測でしか無いが、ただ、これはあながち間違ってもいない。もしここで帝国軍が破れ、皇帝が引きずり降ろされるような事になれば、これまでの爵位など何の意味もなさなくなる可能性がある。
特に現在の帝国の在り方に何の疑問も持たず、国民を虐げ続けた領主などはそれが顕著であろう。
そして反乱軍に与する者にとってはこの時こそがチャンスなのである。今のうちに邪魔な領主に退散頂き、反乱軍が勝利した際には自らをアピールし、空いた領地に子供なり血族なりを領主の座につかせ領地を拡大させようという思惑があった。
だからこそわかりやすい暴君であったグレツが狙われたのだ。
「しかしグレツ閣下、この後はどうされるおつもりで?」
「……癪にさわるが西のデトロイを頼る。あいつも今更反乱軍に乗り換えるなど不可能だろうしな。しかし、奴は堅牢な城で守られている。たとえ愚民どもが暴徒と化したところで突破はされんだろう。だが、奴とて今は少しでも同士を集めたい筈。な~に、たとえここで皇帝が討たれるような事があろうとも、その後には北のタイガ将軍が控えている。帝都を落としたなどと浮足立っている間に、あの将軍が動き出し、あっさりと反乱軍は殲滅されるだろうよ」
「なるほど流石グレツ様!」
「先見の明に長けていますね! まさに賢君とは閣下の為にあるようなお言葉!」
やんややんやと褒め称えられ、まんざらでもなさげなグレツ男爵。
気分が良くなってきたのか鼻歌などを奏でながら、前を行く騎士に尋ねた。
「ところで、その温泉とやらは本当にあるのか?」
「はい、あまり知られていない隠れた秘湯でして、疲れを癒やすためにはピッタリですぞ」
「ほう、それは楽しみだが、どうせなら綺麗どころも一緒したいところだな」
「一人連れてきてた女官も、逃げられてしまったからな。どっかのバカのせいで」
「お、俺かよ! い、いや、まさかあんなに抵抗されるとは思ってなかったので……」
「ふん、おかげで中途半端に気持ちが高ぶって終わってしまった。全くあんな不敬な女は途中でゴブリンにでも襲われてしまえ! くそ! どこかに女はいないのか?」
「もしいたら、今度は絶対に逃しませんよ。全員溜まりに溜まってますからね」
「ふん、興奮しすぎて殺してしまうかもな」
「それは、せめて最後までやってからにしてもらえるとありがたいです」
「まぁ、考えておこう。とは言え、女がいなければ――」
その時だ、温泉を目指す彼らの耳に、重なるような嬌声が飛び込んでくる。
「これは、女の声ではないか?」
「確かに聞こえましたな」
「しかも、一人じゃない、何人かいる」
「若々しい声だ。くぅ~たまんねぇ!」
「温泉の方ですぞ。どうやら湯浴みしている最中のようです」
「ほう、それは脱がす手間が省けてよいな。皆の者! 急いで温泉に向かうぞ! そして湯で疲れを癒やし、女どもには徹底的に我らのコリを解してもらうのだ! 無理矢理にでもな!」
おう! と声を揃える一行。こういった悪巧みに関しては心が一つになる連中ではあるが――
「はい、そこまでですね」
先を急ごうとするグレツ一行の前に、一人の少年が立ちふさがった。
連中からしたら、随分と変わった風貌の少年に見えたことだろう。
「何だ貴様は! 邪魔だ! どけろ!」
「そういうわけにはいきません。この先では私の大事な仲間が温泉を楽しんでいるところなので、穢れた獣に足を踏み入れさせるわけにはいかないのです」
「き、きさま! よりにもよって帝国にこの人ありといわれた貴人、グレツ男爵閣下にそのような言葉! 不敬であるぞ!」
「全くだ。何なのだ貴様は、無礼者が! 名を名乗れ!」
「私はナガレ、ただのしがない冒険者ですよ」
激昂し詰問する男爵に、少年ナガレはあっさりと答える。
「ふん、冒険者のナガレか。貴様の名は覚えたぞ! 冒険者であればすぐに身元もわかる! 貴様だけじゃない、その一族郎党に至るまで根絶やしにしてくれる!」
「貴方がですか? 領民の反感を買い、領地を捨てて逃げ出してきたような男爵に、そのような力があるとは思えませんが」
ニッコリと微笑みつつ、ナガレがあっさりと男爵の立場を看破した。
ビクリと肩が震えるグレツであったが。
「貴様、何を知っている? ふん、まぁいい。冒険者風情がたった一人で何が出来るものか、この愚か者が!」
「全くだ、この人数を見て、本当は心中穏やかではないといったところだろう」
「へへっ、でもよぉ、こいつもよくみたら可愛らしい顔をしてるぜ。なんなら俺こいつでもイケるぜ?」
「おま、そんな趣味あったのかよ……」
ゴリゴリな感じの兵士の発言に、聞いていた仲間が引いている。だが、ナガレは構うこと無く。
「どう思われても結構ですが、そこから一歩でも近づいたら――飛ばします」
は? と全員の頭に疑問符が浮かぶ。言っている意味が理解できていないようであり。
「何をわけのわからないことを言ってやがる! いいからさっさとどきやが――」
「警告はしましたよ」
兵士の一人がその一歩を踏み込み、その瞬間、何かに弾かれたように吹き飛ばされ、悲鳴を上げる間もなく夕暮れの空の向こうへと飛んでいった。
『――はい?』
その様子に、一様に呆けた顔で声を揃える。
「お、お前一体何を……」
「大したことではありませんよ。大丈夫です、折角ですから皆さん揃ってスタート地点に戻してあげますので」
「す、スタート地点? ギャッ!」
「んぎゃ!」
「ヒッ!」
今度はそれぞれしっかり悲鳴を残しながら、次々と打ち上げ花火のごとく山を越えた向こう側へと飛んでいく。
最後に残されたグレツはすっかり顔が青ざめているが。
「い、いやはや、た、大したものだ! どうだ? 私の部下に? そうすれば――」
「ご遠慮致します。それより貴方はしっかり自らの責任をとってください」
「ちょ、ま、ひいぃっぃいいいいいぃい!」
結局グレツも皆と同じように派手にすっ飛ばされていく。
こうして、不埒者の悪行は、ナガレの手で見事未然に防がれた、が――
「カイルさん――覗きは駄目ですよ」
「え! どうしてわかったの!?」
藪の中からカイルが飛び出し、耳をピコピコさせながら目を丸くさせる。
「いやぁ、ナガレっちなら大丈夫だと思ったけど、いざとなったら助けに入ろうと思ったんだよね~」
「そのわりに、脚は温泉側の方へ向いてましたね」
「あははは~やっぱりナガレっちには通用しないね」
「はい」
全てを見透かしてるような笑みを返すナガレ。カイルは、まいったなぁ、と頭を擦った。
こうしてナガレは温泉の女性陣に魔の手を伸ばそうとしたグレツ達も、どさくさに紛れて覗きをしようとしたカイルも、両方を律し彼女達の操を守ったのである。
なお、グレツ男爵一行はナガレの言うようにスタート地点、つまり、元の領地、人々が大勢いるそのど真ん中に落とされたのだが、その先どうなったかは、神のみぞ知るである。