第三一二話 生きる覚悟
最後の手段であったオーディウムを召喚したサトルであったが、それでも届かずナガレに破れ、悪魔の書も取り上げられてしまった。
その結果、遂にサトルは恥も外聞もなく悪魔の書を返して欲しいと、復讐にはそれが必要だとナガレに懇願するも悪魔の書の代わりにと一本の剣だけを渡されてしまう。
そのことに絶望し、なんでこんなことをするんだと涙ながらに訴えるサトルであったが、そんな彼に告げられたのは、ナガレにサトルを救って欲しいと依頼したのがアンという獣人の少女であったという事実。
その言葉に、何かを思い出したように顔を上げるサトルであり――
「どうやら思い出したようですね」
「……確かに、記憶はある。だけど、ありえない、あの子は奴隷として、売り飛ばされたと聞いた。しかも闇取引で無事でいられる可能性はないと……」
目線を下げ、過去の出来事を思い起こしながらサトルが語る。
それにナガレは一つ頷き。
「……確かに奴隷として売られるところだったのは確かです。しかし、その馬車が魔獣に襲われ奴隷商人は全滅。ですが捕らわれていた獣人の少女達だけは助かったのですよ」
ナガレの説明で、サトルはどこかホッとしたような表情を浮かべ表情も和らいだ。
やはり、彼もその事が胸のつかえとして残っていたのだろう。
「……それも、多分あんたが助けたんだろ?」
だが、安堵の表情もすぐにどこか己を責めるようなものに変わり、ナガレに問いかける。
「そうですね、私と仲間達で救出した形です」
質問には素直に答えた。そしてその件があって、アンからサトルの話も聞いたのだとナガレは説明する。
「だとしたら、その少女を助けたのは俺じゃない、あんただ。俺は――その子を見捨てたんだ」
「しかし、アンはそうは思っていないですよ。貴方に感謝をしてました。ですが、貴方の危うさをどこか感じ取っていたのでしょうね。だからこそ私に――」
「やめてくれ! そんな話聞きたくない! 俺は、俺は――」
声を荒げナガレの話を拒絶する。それはある意味では彼の後悔のあらわれなのだろう。
サトルはただ邪魔者だけを殺し続けてきたわけじゃない。中には助けたくても助けられなかった命だってあったはずだ。
それも含めて、彼は心の何処かで悔いていたのだろう。
もしかしたら、彼が思う罪の中には、そういったものも含まれていたのかもしれない。
「サト、ルくん――」
すると、どこか懺悔めいた空気すら滲ませるサトルの前に、マイが歩み寄った。
そう、マイが、己を守ってくれていた壁から自ら抜け出し、サトルの前にその脚で近づいていた。
「……ごめんな、さい――」
そして、両膝を突き、サトルに向けて、謝罪の言葉。
それを耳にしたサトルが顔を上げ、両目を見開いた。
「ごめん、だ、と? ふざ、ふざける――」
そして床に転がっていた剣の柄に手を伸ばし、怨嗟の炎をその眼に宿す。
マイの謝罪に、復讐の感情が再燃したのかもしれない。
だが――
「気づいてあげられなくて、ごめん、ね――」
ふわりと靡いた黒髪が、優しくサトルの顔を撫でた。そして彼の顔は柔らかい両腕に包まれ胸元へと引き寄せられる。
え? とサトルの瞳が動揺に揺れた。
温かい雫が、サトルの頬に感じられた。目だけでサトルはマイの顔を見上げてみる。
涙を流すマイがいた。謝罪の言葉を述べるマイがいた。
だが、その顔に、表情に、何故か殺意は全く湧いてこなかったようだ。復讐の感情も小さくなっていく。
何故か? いや、サトルには理解出来たはずだ。それはその様子を眺めていたナガレにもよく伝わった。
「……今の彼女の涙が、本当にサトルくんの思っているような相手の見せる涙だと思いますか?」
ナガレの言葉に、サトルがその目を伏せた。
「でも、だったら、なんで……」
どうして謝罪なんて? と、サトルはそう思っているのかもしれない。
「……私は、知らなかった。サトルくんがどれだけクラスで虐げられてきたか。そして家族が、こんな酷い目に、なのにその罪も全て押し付けられて、身に覚えもないのに! 悪いのはあいつらなのに! こんなの、酷すぎる――でも私は、私は何も知らなかった。何もしらないで、クラスメートなのに……なのに……」
サトルの両目が再び大きく見開かれた。だが、そこに色づいた感情は最初のものとは明らかに違う。
サトルは顔を上げ――振るえる唇で、言葉を返す。
「――それじゃあ、君は、俺の事で? だって、俺、君の命を狙おうと、殺そうとしていたのに、なのに、なのに俺のために、泣いてくれているというのか? でも、なんで……」
「……マイさんにも、ある特殊なスキルが備わっています。そして元々彼女は感受性も非常に高い。サトルくんがオーディウムを召喚したあの時、貴方の感情はその憎悪は、外側にはっきりと漏れ出していました。それをマイさんは全て感じ取り、貴方の事を、これまでの境遇を、知ったのです。そして、それを知り、今彼女は涙し、後悔し、謝罪しているのですよ」
ナガレの説明にサトルは困惑しきっていた。サトルとて判った筈であろう。そのとおりであれば、マイには何の責任もないことを。
本来謝ることなんて何もなかった。マイは何も知らなかったのだから。アケチもクラスメートも教師だってマイの前ではサトルの事に触れなかった。
クラスで虐めがあったなどという事実を知られないために、徹底して隠蔽したのである。
だから、マイに知るよしなどあるはずがない。ましてやサトルの家族にも一切関係していない。
だが、それでもマイは悔やんだ。知らなかったでは済まされない事だと、そう考えたのだろう。クラスメートを守れなかった事を、心から申し訳ないと思ったのだろう。
だからこその、謝罪の言葉だ。
「……違う! 違う違う違う違う!」
突如、サトルがそんな言葉を繰り返し、強引にマイから身体を引き剥がした。
え? と目を白黒させる。そして立ち上がったサトルの片手には、ナガレが用意した剣が握られていた。
「……サトルくん、うん、そうだね。私も悪いもの。サトルくんの受けてきた仕打ちを考えれば――」
「違う!」
サトルが叫んだ。ビクリと肩を揺らし、マイが彼を見上げる。
泣いていた、サトルは剣を持ったまま、悲しみと後悔をその顔に貼り付け、ただ、泣いていた。
「……俺、馬鹿だな。やっと気がつけるなんて、そうだ、マイさんは悪くなんてない。それなのに、俺は、悪いのは、全て、僕だよそれに、やっと気がつけた――だから」
サトルの刃が、己が喉元に触れた。
「――ちょっ! サトル駄目!」
「いいんだ、僕の復讐は、これで終わ――」
刃を自らの喉元に突きつけたまま、サトルは柄を握る両手の力を強める――だが、その行為は何かとてつもない力に阻まられた。
サトルがいくら力を入れようと、刃はピクリとも動かない。
「な、ナガレくん!」
マイが思わず叫んだ。いつの間にかサトルの横に立ったナガレが、彼の腕に手を添え、その行為を止めていたからだ。
「は、放してくれ! 僕は、取り返しのつかないことをしようとしてしまった! こんなのもう死んで償うしか!」
「甘えるのもいい加減にしなさい――」
サトルの身体が大きく一回転した。それはもう見事なまでの円の軌跡を描き、サトルは背中をしこたま打ち付け床を転がった。
勿論、その際に剣は取り上げ、いつの間にか鞘もナガレの手の中に。
「う、うぅ、何で、何で、今度は死なせても、くれないのかよぉ」
「全く、私はそんな事のためにこれを渡したわけではありませんよ」
鞘に剣を収め、泣きじゃくるサトルを叱咤する。
「大体、そんなことでは貴方の復讐はどうなるのですか?」
「……そんな気持ちは、もうないよ」
サトルはゆっくりと上半身を起こし、そして魂の抜けたような表情でそう語る。
「マイは、僕の勘違いだった。いや、勘違いなんて言葉で済む話じゃない……」
「マイさんの事は確かにそうかもしれない。ですが、アケチの事はそれでいいのですか?」
「……どっちにしろ、今の僕じゃ駄目だよ。悪魔の書も失った。でも今更それを使おうとも思わない。だからって、そんな剣一本じゃどうしようもない。僕は、弱いんだ、どうしようもなく、貴方の言ったとおりさ。強い力を手に入れたから、つい復讐なんて考えてしまったに過ぎないんだ。どうしようもない卑怯者だよ」
項垂れ、そう答える。その背中には哀愁すら感じさせた。
「……サトル、そんな――」
そんなサトルが見ていられなかったのか、マイが声をかけようとするが――
「いえ、そのとおりですね。貴方は弱い。それは間違いないでしょう。とくに心は決して強くなんてなかった」
しかし、マイの言葉を遮るように、ナガレが容赦なく彼に言い渡す。
「はは、そのとおりだよ。よくわかっているじゃないか」
自虐的な笑みを見せるサトル。完全に自信をなくしてしまっているのは明らかだが、そんな彼に向けて更にナガレは続けていく。
「ええ、そして、だからこそ、悪魔の書を手に入れた貴方は非情であろうとした。非情でなければ強くなれないと、そう考えていたから、非情でなければ、復讐など果たせないと、そうやって自分を奮い立たせていた」
「……」
「マイさんについて、頑なに間違いを認めなかったのも、それがあったからでしょう。貴方は、後悔したくなかった。強くあるためには一度決めた復讐をやめるなんて考えられなかった。それを認めてしまうと、貴方の思い描く正当性に罅が生じてしまう。自分の行為にもしかしたら間違いもあったのではないか? と迷わざるを得なくなる。貴方は、それが怖かった、非情であることに迷いが生じ、弱くなることを心の何処かで恐れたのです」
サトルはナガレの話を俯きながらも聞き続けていた。そしてポツリと、そうかもしれない、と呟く。
「マイさんに関しては、途中からほぼ意地だった。そんなわけがないと、自分に言い聞かせた。本当ならナガレさんの言うように、彼女の記憶を見せてもらえばそれで全てが判明したはずなんだ」
「そ、それなら今からでも!」
「いや、もう大丈夫。あの涙を見れば、マイさんがそんな人間じゃないなんて僕でも判るよ。気づくのが、おそすぎたかもしれないけど――」
「そんなことないよ!」
マイが叫んだ。そして真剣な眼差しでサトルを見つめる。
「だって、私は無事だもの。ほら、傷一つないでしょ? だから、遅すぎたなんて事ないよ。だから、だから、死ぬなんて、馬鹿な考えやめてよぉ……」
「…………」
サトルが押し黙る。マイはこう言っているが、やはり自分の中で整理がついていないのだろう。
「……でも、僕は取り返しのつかないことをしてしまった。僕が命じた悪魔のせいで、町も一つ殲滅されているんだ……復讐のためだからって、そんな事が許されるわけが――」
「確かに貴方のした行為の全てが許されるわけではないでしょう。ですが、だからこそ、貴方は先ず生きなければいけない。本気で贖罪する気があるなら、死では何も解決しません。例え他者から恨まれようが、石を投げられようが、生きてこその償いです」
ナガレはサトルの逃げを許そうとはしなかった。だからこその言葉である。
「……ナガレさん」
「それに、貴方は奪ってきたばかりではありませんよ。先程も言いましたが、貴方を救って欲しいと懇願してきたのは貴方が助けたアンです。例え貴方がどう思おうがそれが事実です。少なくとも貴方がその場で助けなければ、彼女の命は三人の下劣な男の手によって奪われていたことでしょう」
「……それは――」
「それに、確かに貴方の召喚した悪魔で町は壊されました。ですが、悪魔達に一切心がなかったわけではありません。きっとあの悪魔にはサトルくん、君の気持ちをある程度察する力があったのでしょう」
「……気持ち?」
「はい。きっと貴方はこの帝国で旅を続けるうちに、帝国の人々に虐げられている獣人達を多く目にしたのでは? それは、もしかしたら自分を重ねての事なのかもしれません。そして、貴方は獣人を何とか助けてあげたいとそう考えていた。だからこそ、あの悪魔達はその気持ちを汲み取り、町を襲った際にも獣人だけは助け出してました」
「……悪魔が、獣人を――」
これはサトルも知らなかった事だ。悪魔の鏡を通して町が破壊され、待機組の男女に復讐を果たしたところまでは見ていたが、獣人たちを助けている様子までは確認できなかったのである。
「はい、ですから貴方は奪ってきたばかりではないのです。他にも貴方は助けた命だってあった筈です。そしてだからこそ、私はアンの依頼を請けました。その気持があれば、何かを助けたいと思える貴方であれば、まだ救いはある。笑顔で人を殺せるような連中とは違う」
「……でも、もう僕には何も残っていない。こんな弱い僕なんかじゃ、もう――」
「逆ですよ」
「……逆?」
ナガレの言葉に、サトルが目を白黒させた。全てを失った自分に一体何が残っているというのか、自分では理解が出来ないのだろう。
「はい、むしろ私は貴方に自分の弱さを知って欲しかった。強さに溺れたままでは、それ以上得られる物は何もありません。ですが、人は弱さを知ったとき、また強くもなれるのです。悪魔の書を手にした貴方は、いつしか自分が強くあり続ける事に執着するようになってしまった。その結果周りが見えなくなってました。ですが、今の貴方は違います」
「僕が、違う……」
「そうです、私には今の貴方のほうがずっと可能性を感じる。少なくとも自分の弱さを知った貴方の心は、先程より遥かに強くなっている、そう思えます」
「心が、強く……」
「はい、そして真の復讐を成し遂げたいなら、目標を成就させたいのであれば、死ぬ覚悟ではなく生きる覚悟を持ちなさい」
ナガレの言葉に、え? と驚いたようにサトルは目を丸くさせるが。
「先ほども申し上げたように、私は貴方の復讐そのものを否定しているわけではありません。勿論貴方の気持ち次第であり、最終的に判断するのはサトルくんですけどね。しかし、力の使い方は間違ってはいけませんよ。相手を見誤るのもです。力は鞘をなくした刃のようにただ闇雲に振り回すだけでは駄目です、この剣のように鞘に収め、相手を見極め、ただひたすらにその時に備えて、刃を研ぎ澄まし――そして力だけではなく、心も添えて、ここぞという時に刃を抜き全身全霊を持って相手を討つ、それぐらいの気持ちがなければいけません」
「……刃を研ぎ澄ます、心も添えて、全身全霊で――」
サトルはナガレの教えを反芻し続けた。その眼にはいつの間にか徐々に光が取り戻されつつあった。それは死を覚悟とした後ろ向きな淀んだ輝きではなく、生を覚悟した、炎の光のようでもあり――
そんなサトルを見ながら、安堵とも、憂いとも言える表情を見せるマイ。胸中に様々な感情が渦巻いているのかもしれない。
そして、どこか決意めいた瞳で、マイがサトルに声をかけようとしたその時――
――パチ、パチ、パチ。
どこか乾いたような拍手の音が、三人の耳に届く。
「……どうやら、ようやく姿を現したようですね」
そして、ナガレが拍手をしながら近づいてくるその男を振り返り、サトルもまた、その眼を彼に向け呟いた。
「――明智、正義……」




