第三一一話 それで十分
ナガレを相手する手札が尽き、遂にサトルは悪魔の書第一位であるオーディウムに手を出した。
だが、事前に悪魔の書そのものが警告したとおり、今のサトルにはその悪魔を使いこなすだけの力は備わっていなかった。
オーディウムは憎悪を糧に成長する悪魔だ。故にこれを召喚するには当然サトルの心も憎悪で満たされていなければならない。
だが、今サトルがナガレに抱いた感情は憎悪とは全くの別物。ただ自分は間違っていないと証明するため、そして自尊心を傷つけられたくないというある種の自衛手段。
しかし、それをサトルは憎悪に置き換え、その力を無理やり行使しようとしている。だが、それでは当然本来の力など引き出せはしない。
もしサトルが心からの憎しみをもってこの力を解放していたならば、帝国どころか世界を蹂躙しかねない力を手にしていた事だろう。
だが、それでもアケチには届かない事をナガレは知っている。そもそもこの力を引き出すことこそがあの男の狙いだからだ。
結局のところアケチそのものが強烈な負の感情の持ち主だ。それに対し、サトルが同じ負の感情で挑んだとしても勝ち目などないのである。
「……やはり、こうなりましたか」
どちらにしろ、今のサトルが振るおうとしている力が中途半端な事は明確だ。
今現在、サトルの背中より、無理矢理放出された憎しみを糧に悪魔が現出している。その様相はまさに悪魔と称して間違いのないものであろう。
だが、これももし完成していたならば、サトル自身を取り込み、この城を飲み込んでもまだ足りないほどの巨大さを振るっていたであろうが、今は精々サトルが召喚したアスタロス程度の大きさ。
それが前のめりになり、四肢を床につけているような状態。顔をナガレに向けているが、確かに禍々しい姿形だが、上手く形状を保てないのか、ドロドロに解けかかっており、巨大な人型のスライムかヘドロかといった状況。
これもサトルと悪魔が互いに制御をしようとした結果、つまりサトルの意識もオーディウスの意識も上手く融合できず、互いに主張しあっているためこのような中途半端でとても不安定な状態なのである。
だが、このような状態においても流石に第一位というべきか、ドロドロの背中から伸びる触手が天井を蹂躙し崩れた破片が雨のように降り注いでいた。
尤もナガレ周辺には全く影響がなく、またあまりに危険な箇所は即座にナガレが合気で補修してしまっているが。
「……これは、嘘、これが、サトルくんの――」
そんな最中、後ろでサトルの様子をじっと観察し続けていたマイが愕然とした表情を見せていた。
ただ、これは恐れなどではなく、同時にナガレの読み通りになったともいえる。
なぜなら、今マイはサトルから溢れ出た感情を、その憎悪の深淵を感じ取っているに違いないからだ。
サトルは本来持ち得るはずのないナガレへの憎悪を無理やり膨らませ、オーディウムを呼び出した。
その結果、オーディウムは足りない力を、サトルの心の根底である憎しみを引き出し代わりにしようとしている。
だが、結局のところ非常に不安定な状態において足りない分を無理やり補おうとしているので無理が生じており、その結果折角引き出したサトルの感情は完全には取り込めず、その大部分が漏出してしまっている。
尤もいくら漏出しているといっても、結局はただの感情。本来であれば普通の人間に読み取れるものではない。
しかしマイは女優としての力量も期待されていただけに、元々感受性が非常に高い。その上でこの世界にきて身についた力もある。
これは本人はいまいち使いみちが判ってなかったようだが――しかし、今彼女はまさに元々身についていた能力とこの世界で手にしたその力をもって、サトルのこれまでを読み取っている。
それは、恐らく彼女にとっては非常に辛いことでもあるだろうが――しかしそれでもマイであれば乗り切れる。そう、ナガレは信じていた。
呻き声を上げ、涙を流し、自らの肩を抱き、嗚咽を漏らす――そんな彼女をそのままにしておくナガレは非常に冷たいようでもあるが、今後のことを考えれば必要な事だ。
それに、ナガレは目の前のサトルを先ずどうにかする必要がある。
「ああああぁああ、ナガレぇ、負けない、復讐ヲォォオォオ、果たすんラァアアァアアアア!」
無理やり力を奮い起こし、オーディウムがその口にどす黒く変色した多大な魔力を集束していく。本来の威力には至らなくても、それでもこの城を軽く吹き飛ばすぐらいの力は有している。それがナガレにも感じられた。
しかし、今の状態を考えればこれ一発を放つのが精一杯であることもナガレは察していた。
だが、かといってただ受け流すだけでは、今度は暴走しかねない。
「死ネェエエェエエエェエエェエエ!」
オーディウムの口から放出された黒いオーラがナガレに向けて突き進んだ。全てを飲み込み破壊してしまうほどの悪しき力。床をガリガリ削りながら今まさにナガレに命中、したかと思えた直後、それを片手で受け止めた。
そして、ナガレはそれをただ受け流すのではなく、そのまま腕を回転させ、放たれた憎悪のオーラを巻き上げ自らの中心へと練り込んでいく。
こうしてナガレの手の中に集束されたオーラを今度はぐるぐると光速を超えた速さで回転させ、まるで撹拌するかの如く、負の力のみを霧散させ、合気を加えた純粋な光のオーラを生み出した。
こうして作り上げられた光を、サトルも、その背中から生えたオーディウムでさえも、唖然とした様子で眺めていた。
「……少々性質が変化いたしましたが、これはお返し致しますよ。サトルくん」
そして、ナガレがその掌を前に突き出すと同時に、光のオーラが突き抜け、サトルもオーディウムも、一気に飲み込んだ。
光の中でオーディウムは完全に消滅し、サトルも軽く吹き飛び、そして地面に転がった。
尤もこれはサトルにダメージを負わせるのが目的ではない。故にサトル自身にはそれほどのダメージは残っていないはずだ。
ただ――くるくるくると回転しながら黒い何かがナガレに向けて飛んできた。
それを受け取ったナガレは、腕をおろし、表紙を眺めながら軽く微笑む。
「ようやく離れてくれましたね」
『……クッ、一体なんなのだ貴様は……』
「地球では何の変哲もないただの合気道家、こちらの世界では、しがない冒険者といったところですね」
『――意味がわからぬ、そもそも何故契約者でもない貴様が我と話せる? 我の念が伝わる?』
「私、そういうことが得意なんです」
『本当に、なんなのだ貴様は――』
念しか発せない悪魔の書であるが、それでも唖然としているのだろうなというのはよく伝わってくる。
それ程までにナガレは型破りな相手ということなのだろう。
「な、なんだよこれ、なんで、なんでお前がそれを持ってるんだぁあああ!」
随分とボロボロになった広間にサトルの激昂が響き渡る。
ナガレが目を向けると、立ち上がり奥歯を噛みしめるサトルの姿。
「こちらに飛んできたので、折角なのでこれは私の方でお預かり致します」
「は?」
顔をしかめ短い言葉を返すサトル。そしてすぐに右手を額に添え、その力を強めた。
状況を完全に把握しきれず、何とも言えない憤りを感じているようだ。
「くっ、そんなの無理に決まってるだろ! 契約者はこの俺だ! さあ、俺の下へ戻れ!」
サトルが手を掲げ語気を強め訴えた。だが、無情にも悪魔の書はナガレの手に収まったままだ。
「……馬鹿な、一体、どうして――」
『なんだ? 一体本当にどうなっている? クッ! サトル! もっと強く我を願え!』
「無駄ですよ。私の手の中にある限り貴方の声は彼には届きません」
『――なッ!?』
「な、なんだどうなってる? ま、まさかお前がそれと話しているのか? ば、馬鹿な! くそ! 消えろ! その男の手から今すぐ消えろ!」
サトルは必死にナガレの手から悪魔の書を取り戻そうとするが、しかし全く変化はなく、ナガレの手からサトルの手に戻ることもなければ、消えることもない。
「そ、そんな、まさか、お前、その男に鞍替えしたのか? だから、だからステータスもこんなに落ちているのかよ!」
『ステータスだと? 一体どういうことだ!』
悪魔の書がナガレに訴えるが、彼は答えず、ただサトルにだけ言葉を返す。
「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ、私が預かっているだけです。ただし、この本の恩恵は受けられないようにさせて頂きましたが」
「ふ、ふざけるな! 何だよそれ! 返せ! 俺の本だ! それは俺のものだ!」
サトルがナガレの手にある本を取り戻そうと突っかかってきた。距離を詰め、手を伸ばし、なんとか奪い返そうと躍起になる。
だが、ナガレは相変わらずその位置からは一歩も動かず、伸ばされた手をひょいひょいと躱していき、そして遂にはサトルがバランスを崩し見事に転倒。
だが、それでもサトルは諦めずすぐに立ち上がり手を伸ばすが、そのたびに、その場でコロンコロンと転び続け、いや、正確には転ばされ続けた。
「ぐ、うぅ、くそ! くそおおぉおおお! なんなんだよお前! 何なんだよ一体! どうして俺にこんな事をする! 何が目的なんだ!」
「……貴方に理解してもらう事ですかね」
「理解? 何だよ理解って。俺が、俺がお前より弱いってことか? だ、だったら認めてやる! 認めてやるからその本を返せよぉおおおお!」
「……随分と必死ですね。そんなにこの本が欲しいのですか?」
「当たり前だろぉおおぉおお! 俺にはそれが必要なんだ、必要なんだよぉおおおぉお!」
絶叫するが如く声を張り上げるサトル。もはや恥も外聞もなく、ただただナガレに縋っていた。
「何故ですか? 何故この本が必要なんですか?」
しかしナガレは本を返すような真似はせず、ただその質問をサトルにぶつける。
「わかりきった事を聞くなよ! 復讐のためだよ! 復讐のためにその本が必要なんだ!」
「復讐のためにですか……」
「そうだよ! お、お前だって言ってただろ! 復讐を止める気はないって! だったら、だったら――」
ボロボロの床に拳を叩きつけ、サトルが懇願するように呟き続けた。そんなサトルにナガレが質問を重ねる。
「復讐のために必要なんですね?」
「だ、だからそう言っているだろ!」
「そうですか。それならば、貴方にはもっといいものをお渡ししますよ」
そして、ナガレは魔法の袋から一本の剣を取り出し、床に崩れ落ちているサトルの目の前に置いた。
「……何だよこれ」
「見ての通り剣です」
「そんなことは判っているんだよ! ふざけるな! 俺が欲しいのはこんなものじゃない! 悪魔の書だ! その本だ! それが復讐に必要なんだよ! 俺はこの日の為に生きてきたんだ! 悪魔の力で奴らに復讐できる日を! それがもう少しというところまで来てるんだ! 俺の邪魔をするなーーーー!」
サトルの悲鳴にも似た叫びがこだました。だが、ナガレは淡々とサトルへの言葉を紡いでゆく。
「……既に申し上げてますが、私は貴方の復讐の邪魔をするつもりはありません。相手を見誤らなければね」
「だったら! なんでその本を俺から奪う!」
「……逆に聞きますが、なぜこれでなければいけないのですか?」
「だから! 俺の復讐にはその本が必要だからと!」
「つまり、貴方の復讐はこの本ありきだったと、この本がなければ貴方は復讐が出来ないし、しようとも思わなかった、そういうことですか?」
「……え?」
サトルが目を丸くさせナガレを見た。その唇は、わなわなと震えていた。
「……今の貴方の話を聞いていると、結局のところこの本という強い力が手に入ったから復讐を思いついた、その程度の気持ちにしか思えないのですよ。つまり貴方の復讐心はその程度のものだったのか、とね」
「ち、違う! お、俺は、俺は、俺は――」
サトルはナガレの言葉に明らかに動揺していた。なんとか言葉で否定しようとしているが、その声も尻すぼみに弱々しくなっていく。
「……サトルくん、貴方の気持ちが本物なら、その剣一本あれば復讐には事足りるはずです。いえ、例え剣がなかったとしても、ナイフ一本、針の一本でも復讐は果たせる筈なのです。どんな形であれ、その想いが本物であればね」
頭を抱え蹲るサトルへ、ナガレの言葉が降り注ぐ。穏やかだが、厳しい言葉だ。
「う、うるさい! 黙れよ! そんなのは綺麗事だ! 俺には力が必要なんだ!」
しかし、サトルは目の前に置かれた剣を抜き、立ち上がりナガレを斬りつける。
何度も何度もそれを振る、だが、それはいささかやけくそ気味であり、型も何もないメチャクチャなものであった。
当然そんなものがナガレにあたるわけもなく――刃はあっさりと掴み取られ、そのままくるりと剣も身体も回転し、背中から地面に叩きつけられる。
「なんだよぉ、なんでだよぉ、何で邪魔をするんだよぉ、どうして、どうしてお前は俺にここまでするんだよぉ、本を返せよぉ、頼むから、本を……」
遂にサトルは涙を流し、鼻水さえも垂らし、懇願し始めた。様々な感情が渦巻いているのか、癇癪を起こした子供のようになりつつある。
あまりに情けない姿に思えるが、突如現れたナガレという存在にマイへの復讐を阻まられ、悪魔の書まで奪われたのだ。やるせない気持ちになっても致し方ないかもしれないが。
「……最初に申し上げたとおり、私は貴方を救って欲しいと依頼されここに立っています」
「だから、誰だよそいつは! こんなやつを寄越して! こんな化物を!」
サトルが思わず叫び上げる。化物――確かにみようによってはそう思えるかもしれないが、彼もサトルと同じ世界からきた人間である。
「私に貴方を救って欲しいと依頼したのは、アンという獣人の少女です。貴方にも覚えはあるでしょう?」
「……ア、ン?」
するとサトルが顔を上げ目を丸くさせた。一瞬誰のことかと悩んだようだが、あ、と思い出しように声を上げる――




