第一九話 森のくまさん
ベアグリー……ビーチがそう呟いた魔物は、ナガレの知り得る知識で言うならようは熊の化け物だ。
その大きさはツキノワグマより一回り大きい程で毛並みは黒。だが、熊との大きな違いはその目と腕であり、まず瞳は顔の三分の二を占めるほど巨大な眼球が一つのみ。いわゆる単眼である。
そして、腕に関して言えば鋭い鉤型の爪を有したものが四本生えている。
そのあまりに不気味な様相の魔物が――恐らく今しがた仕留めたばかりなのであろう狼の屍肉を貪り食っていた。
「ちょっと、流石にこれまずいわよ……あいつランクとしてはB級が相手できる程度とされてるけど、特殊攻撃があるから危険度は高いとも言われてるのよ」
ひそひそとピーチが耳元で囁く。ランクで言えば、変異種のグレイトゴブリンよりは下だが、その特殊能力があるため対策を講じてないと思いがけない苦戦を強いられるという話のようだ。
「特殊能力は、眼ですか……」
そして当然だがナガレは早くもその内容を看破する。
「そうよ。あのベアグリーはフィアーアイズというスキルを持っていて、あの瞳に凝視されると恐怖で脚が竦んで動けなくなるの。そこをあの腕で切り裂いた後、ゆっくりと捕食するのよ」
ピーチの説明にナガレは顎を引く。勿論既に察していた事ではあったが。
「でも、やっぱり戦う気なの?」
「えぇ。このまま放っておいては次はベアールさんの身が危なくなります。いくら彼でも魔物までは相手にできないでしょうし、そんな眼の力があるならなおさら放ってはおけません」
ナガレはピーチと一緒に昼食を馳走になったという恩がある。
受けた恩は必ず返す、それがナガレの流儀だ。
「……判った。私もサポートするわ! 大丈夫、グレイトゴブリンに比べたらベアグリーは魔法抵抗力は低いのよ。私の魔法でも多少は――」
「念のため言っておきますが、炎の魔法はやめたほうが良いですよ」
え? とピーチが目を丸くさせた。
どうやらナガレの予想通り炎の魔法を行使する気だったのだろう。
どうして? という恨みがましい目でナガレを見上げてきた。
「……ここは森です。引火するものも多い、もし外して火事にでもなったら厄介ですし、結果的にベアールさんに迷惑を掛ける事になります」
「だ、大丈夫よ! 炎の魔法は得意だし、それぐらいの制御」
「勿論、これが普段から魔物が多い魔素の多いところであればこんな忠告は無用とは思いましたが――寧ろこれはピーチの方が詳しいのでは?」
ナガレの発言に、むぐぅ! と喉を詰まらせピーチが唸った。
魔素とは魔力を得るのに必要な異世界特有の元素だ。
基本的に魔力は、こういった空気中の魔素を取り入れ変換することで得る。
最初にあったときにピーチがみせたスキルの瞑想も、この魔素を効率的に魔力に変換する為のスキルであり、またピーチが喜んでいたマジックポーションに関しては、魔草を魔力に変換し液状にして詰めた物だ。
その為マジックポーションなどは即効性があり飲んですぐ魔力が回復するというわけである。
そして、魔素は別に魔力を手にするためだけに必要なものというわけではない。
魔素そのものにも魔術師であれば魔法発動後にある程度干渉が可能である。
故に、魔素が多い場所では例えば一見すると引火しそうな草花が多く茂ったところでも、ある程度魔法を制御することで阻止することが可能である。
しかし、この魔素が少ない、つまり今回のような場所では、魔力で魔法の発動は出来てもその後の制御が難しい為、特に炎魔法などは二次災害を引き起こしやすいのである。
実はこれは街なかでも一緒であり、ただこれは意図的に魔素を制御してる傾向にある。
ちなみに、基本的に魔物というのは特に魔素の多いところに生まれやすい。
逆に言えば、魔素の少ないところは魔物の数もそれだけ減少する。
この場所は山側の山頂に近づくにつれ、魔素は段々と濃くなるが、中腹より上の方で殆どの魔素が循環してしまっているため、麓まで下りてくる魔素の量は少ない。
だからこそ、樵は魔物に襲われる心配もなく、安心して仕事が出来る、はずだったのだが――
(中には、山の上の方からこうやって降りてきてしまうひねくれ者もいたりするようですね)
ナガレはそんな事を思いながらも改めてピーチをみやる。
すると彼女は未だにひとり唸っていたが、何かを思いついたようにポンッと手を打ち。
「そうだ、だったらあまり周囲に影響を与えない、風の魔法で援護すればいいのよ!」
「はぁ……それで風魔法はどの程度扱えるのでしょうか?」
「ウ、ウィンドカッターとか……」
ちなみにウィンドカッターは魔導第十一門の魔法であり、その威力は魔術師の力量にもよるが、ピーチの場合であればゴブリンを数発で倒せる程度だ。
つまり相当心許ない。
「……まぁここは魔素も少ないですし、もし私に何かあったらベアールにこの事を告げて逃げてください」
ナガレは結局そう言い残し、やはり単身で藪を出てベアグリーの前に姿を晒した。
ピーチの、もう! という声が聞こえてきたが、少なくともこの場はナガレ一人の方が戦いやすい。
「グルぅ?」
ナガレが前に出ると、案の定、森の熊、のような見た目のベアズリーが食事を中止させナガレをみやる。
その瞬間、ニヤリと口元が吊り上がったような、そんな面持ち。
バサッと立ち上がり、威嚇するような咆哮――ビリビリと大気が揺れ、ピーチの悲鳴がナガレの背中に届いた。
だが、ナガレは構うことなく、その黒い毛並みに近づこうと、脚を進める。
それに一瞬だけ不思議そうに首を傾げるも、直ぐ様ベアグリーの眼球がピカリと光った。
「ば! 馬鹿! ナガレ! だからそいつの凝視を受けたらヤバイんだってば!」
ピーチの悲鳴のような叫び。だが、時既に遅しナガレの動きがピタリと止まる。
ベアグリーは、己が放った眼の効果でナガレの動きが止まったと判断したのか、ドスドスッ、とナガレの正面に近づいた。
「う、うそ――くっ! もうこうなったら火事とか気にしてる場合じゃない!」
ピーチが藪の中から詠唱を始める。
だが、既にベアグリーの四本の腕がナガレを仕留めに掛かっていた。
「――ッ!?」
ピーチの声にならない叫び。鮮血が宙を舞う。
しかし――それがナガレの血ではないことを、ピーチも即座に理解したようだ。
「グ、グォ――」
わけがわからないといった様子で、その単眼をパチクリさせるベアグリー。
そんな魔物の四本の腕の爪は、それぞれが反対側の腕の付け根にめり込んでいた。
そう、ナガレはベアグリーのスキルなど全く効いていなかった。
そもそも、これまで数多の達人を相手にし死線を潜り抜けてきたナガレは、それだけ多くの殺気も当たり前のように浴び続けている。
そんなナガレが、この程度の魔物が放つスキル程度で畏怖するわけがそもそもないのだ。
ナガレが脚を止めたのは、獲物を誘い出す為の手段にしか過ぎない。
そして、案の定それを勘違いした魔物は、不用意に正面からナガレに近づき、あまりに判りやすい攻撃を繰り出した。
こんなもの、ナガレからしたらなんの問題にもならず、ミクロの動きで避け、更に避けた先から力を乗せ軌道を変え、自滅に追い込むことなど造作も無い事である。
しかも、本来ならばこの魔物の関節の可動域はそこまで大きくない。自分の腕が反対側の腕を傷つけるなどあり得ないのだ。
しかしそこは、ナガレの相手の力を数万倍にして跳ね返す合気で無理を通した。
つまりその結果――
「グ、グォオオォオオオオォオ!」
ようやく痛みに気がついた愚かな魔物が叫びあげ、そして足下をふらつかせた。
当然だ、本来無理な関節の動きを強制的に行使させたのだから、その分関節はぐしゃぐしゃに砕けてしまっている。
爪で腕を傷つけた事よりも、その事のほうが感じる痛みは上だろう。
そしてナガレはその足下のふらつきも見逃さない。
瞬時にベアグリーの横に移動し、右足を後ろに払うようにして、ベアグリーの脚を刈った。
その瞬間魔物の脚が地面を離れ、そしてぐるんっと千回転。
直後ナガレがその喉を掴み、地面へと勢いを乗せて叩きつける。
ギュギィ! というひしゃげた声。だがそれ以上声を発するのは叶うことないだろう。
ナガレの手で完全に喉は潰されてしまっているからだ。
「え? あれ? もしかして終わった?」
詠唱を途中で止め、疑問混じりの声でピーチが発する。
しかしナガレは、まだです、と述べ。
「トドメはピーチがどうぞ。目が弱点なので、ここを攻撃すればそれで死に絶えます」
ナガレはベアグリーの上半身だけ起こし、彼女にそう告げた。
既に魔物は虫の息状態だが、確かにまだ生きてはいる。
「え? いいの?」
「構いません。私はどのみちレベル0のままですから。ピーチが倒してしまったほうがいいでしょう」
この世界にはスキルが存在する。そしてレベルも存在する。
レベルの上げ方というのは、多くはナガレのいた世界でいう日々の鍛錬によるところも大きい。
ただ、それとは別に魔物などを倒すことによってもレベルを上げることが出来る。
勿論、ただトドメをさすだけよりは、最初から苦労して戦い勝利を収めた方がよりレベルは上がりやすいようだが、このやり方でも多少は効果がある。
「わ、わかった! それじゃあ――」
そういうと――なんとピーチは駈け出し、ベアグリーの前まで来ると、えい! と気合のこもった声を発し、杖でその眼球を叩き潰した。
「…………」
するとベアグリーの身体が小刻みな痙攣を繰り返し、そして、動かなくなった。
どうやら上手く仕留める事が出来たようである。が、ナガレからしたらこれに関してはわりと予想外でもあった。
(てっきりウィンドカッターで仕留めると思ったのですけどね)
壱を知り満を知るナガレでも時折こういう想定外な出来事に遭遇することはあるのであった――